進歩と改革【2001年8月号】掲載


宝樹文彦 元全逓委員長の「証言 戦後労働運動史(1)」



――宝樹さんは戦後労働運動の最初からその中心におられて、生き抜いてこられたわけですが、その話に入るまえに宝樹さんの生い立ちからお聞かせいただけないかと思いますが。

幼心に残る戦前の逓信労働運動  

 生い立ちと言いましても、郵便局員を父親に生まれまして、親父は(東京の)下谷郵便局の取締役、いまで言うと外務課長という立場でした。家に郵便局の人の出入りも多かったものですから、小さいときから郵便局の雰囲気には触れていました。

 自分で言うのもおかしいのですが、小学校の成績はいいほうでした。ただ、残念なことに父親が早くに亡くなったものですから、母親一人の手で育てられて、中学校に行くことはできませんでした。高等小学校を卒業してから、小遣いをもらいながら夜学で勉強して、専検をとって、大学にいける年になったら働きながら大学に行きたいという気持ちはありましたが、なかなかお金も続かない。当時は陸軍幼年学校、海軍兵学校、鉄道教習所、逓信講習所が官費で養成してくれて、言い方はよくありませんが、将来、栄達ができるコースでした。子ども心にそれを期待して、逓信講習所に入りました。

 逓信講習所に入って、浅草郵便局で、すぐ1級通信士になりました。逓信講習所は電信しか教えてくれなかったのです。浅草雷門郵便局の電信課に配属されまして、2年9ヶ月働いて、徴兵検査を受けて軍隊に入りました。軍隊に5年おりまして、昭和21年の1月に帰ってきました。いまでは理解できないと思いますが、官費で養成された逓信講習所の卒業生ですから、卒業後3年間は逓信省で働く義務があります。それには郵便局での働きは3ヵ月足りませんでしたから、郵便局で仕事をするべきだという通達がきました。それでまた、浅草郵便局で仕事をすることになります。

 こうして、自分自身が貧乏のなかで育ったのですが、その当時の(戦前の)逓信部内の労働組合運動について、小さいなりに聞いて、いろいろと知っていたことが、復員して職場に労働組合ができていたとき、抵抗もなく、非常に興味をもって入っていくことができたと思います。

 大正14年(1925年)の4月に郵便局の外勤の人たちが中心になって、東京の本郷、下谷、小石川の郵便局に逓友クラブという組織ができました。この逓友クラブがだんだん大きくなってきたものですから、その年の9月には解散を命じられて、僅か5ヶ月で なくなってしまいます。そのことも小さいときから聞いて知っていました。

戦前、権力が第2組合をつくったとき

 逓友クラブの人たちは、解散はマズイということで、逓友同志会という名前で活動を続けます。しかし、政府の弾圧が激しいので、総同盟から赤松克麻(1894〜1959、東大新人会創設者の一人、戦前の総同盟、社会民衆党で活動、著書に『日本社会運動史』など)に来てもらって、外部の人(赤松)を会長にして指導を仰ぐことにしました。ところがその後、「公達28号」というものが出まして、逓友同志会がおおきくなってきたが、これはダメだと、別に「逓信従業員会」をつくれということになった。この公達を出したのが誰かというと、今の小泉純一郎首相の祖父の小泉又次郎逓信大臣でした。このことを知る人もいまは少ないでしょう。

 驚いたことに、この公達が出ると、私の家に出入りしていた下谷郵便局の外勤を中心とした人たち約100人のうち、93名が「従業員会」に鞍替えをしてしまったのです。当時の官庁で、「公達」というものが持つ厳しさを物語ると同時に、いわゆる第1組合と第2組合の分裂において相手権力が第2組合をつくろうと動いたとき、どのように労働組合が崩されていくか、戦前の動きのなかで私にも鮮明に知ることができました。

――そのころは、お幾つでしたか。

 私はまだ8歳でした。

――お生まれが何年でしたか。

 大正9年(1920年)です。

 まだ小さかった私が、そういうことを身を以って感ずることができたのは、なぜかというと、私の父親が亡くなった後、母親は同じ郵便局の人と結婚しているのです。再婚した相手の人は非常に穏やかな方で、「同志会」にも入っていたのですが、「従業員会」にも入らず、宙ぶらりんになってしまった。それというのも、あいつはどうでもいい、毒にも薬にもなりそうもないということで、埒外におかれてしまったのです。

 家に帰ってきて、母親と話しているのに、「これじゃ、クビになっちゃう」と。それでは困るので「誰かに頼みに行くか」と。当時の三本白というお砂糖の大きな箱や、「敷島」という高価な煙草を持って、誰と誰の所に行って、「従業員会」に入れてもらえるように歩かなくちゃならない。私の養父は、「従業員会」に入れと言われるのではなく、相手にされずに第2組合に入れてもらうのに貢ぎ物を持って歩かなくちゃならないことになってしまったのです。冬の寒いときに長火鉢の傍で、養父と母が話ししている。みじめな話を小さいときに聞いて、これは私の生涯の労働運動のなかで、非常にいい勉強になりました。  

 その後の動きを見てみますと、春の桜の咲くころになりますと、下谷郵便局の従業員会の人たちは局長以下みんな上野の山に桜を見物に行って、当時は休暇もとれませんから、夜桜でも見て、お酒も飲んで、歌もうたって帰ってくるんでしょうが、肝心の同志会の人たちは埒外で、花見にも行けない。一事が万事すべてそうした差別待遇を受けていました。労働運動についての厳しさを、幼心にといいますか、自然に体験をしていたことになります。

復員直後は上野でヤミ屋をしていた

 兵隊に行って、帰ってきたのが、昭和21年(1946年)の1月ですから、もうそのときは産別会議も、総同盟も動き出していました。郵便局の労働組合も、動き出していました。21年の5月に、全逓信労働組合は帝国劇場で結成されます。

 ところが、私は昭和21年の1月に帰ってきたものの、3月までは郵便局へは行けませんでした。当時、私の母親が埼玉県の鳩ヶ谷という所に疎開しておりまして、そこから浅草郵便局へ通わなければならないのですが、行っても食べられないのです。そのころ、郵便局の私の給料が75円です。ところが当時、米一升が65円でした。米の升一杯で給料がなくなっしまう。これでは母親と妹を養うことはできません。

 しかたないものですから、ツテを求めて、自転車の古いのを買って、それに乗って、千葉まで行って、千葉からまた五井まで行って、落花生を買い、うちで分けて新聞紙に包んで、百袋ほどにして、それをトランクに入れ、上野の駅前のヤミ市で売っていました。一袋10銭です。百袋売れると10円になります。ヤミ屋をやってたわけです。

 ほかに知人が教えてくれて、八王子の銘仙の反物を融通してもらい、自転車の後ろに積んで、千葉の農家に十反持っていった。それを農家に買ってもらって、帰りは落花生を買って帰り、それで自分の口を糊していました。後年、全逓の委員長になった宝樹文彦は、昭和21年には3月まで、アメ屋横丁でヤミ屋をやっていたわけです。

復帰15日で労組書記長に

 これにはもっと面白い裏話もありますが、こうしていましても仕方ないないというので、4月から郵便局に戻りました。給料が足らないので、夜になったら、ヤミ屋も続けるつもりでした。ところが、15日ほど経ちますと、局長が軍隊から復員したものはみんな集まれと集めたのです。そこで、「戦争中は大変ご苦労でした。いろんな不満があったら言ってくれ、給料についても間違っているところがあったら言ってほしい」というのです。

 私の給料の計算が間違っていたことは後でわかったのですが、それはおいて、私が一番に、「大体、局長はいまごろ何を言うんだ。戦争が終わって8ヶ月にもなるのに、いまごろになって戦争に行った人間を集めて、ご苦労さんでしたと。これは初めてらしいが、その態度が非常に悪い。給料についても、5年も戦争に行っている間、戦前の給料から正確に変更されていないの不満である。こういうことについても、局長が先頭に立って、各課長を動かしてキチンとまとめないとみんな不満だらけである」と言ったわけです。  

 これは大変なことなのです。まだ新しい憲法ができる前の天皇制の下の官吏ですから、局長さんにいきなり若い者が盾突いて、なんだというのは、これまでなかったことです。すると、局長が「いや、おっしゃる通りです。いろいろ検討したい」と答えた。そこで「これは、エライやつが出てきた」ということになった。  

 ちょうど1月に浅草郵便局逓信従業員組合ができたところでした。まだ全国組織として全逓はできていませんで、各郵便局ごとに逓信従業員組合ができていました。浅草の組合長は、戦前の逓友同志会の役員をしていた人がやっていました。彼も局長にはまともにものを言えなかったのですから、驚きました。みんな集まって、「あれを組合の役員にしたほうがいい」ということになった。郵便局に戻ってまだ15日なのに、いきなり書記長にされてしまいました。

 さらに、こんどは東京の協議会ができると、その書記長にされました。5月30日には、帝国劇場で全国の逓信従業員が集まって、全逓の結成大会をやろうということになった。東京では浅草郵便局や品川郵便局の組合が集まって東京地区の協議会ができていたのですが、そのような 協議会が全国的に結成され、各県ごとに帝国劇場の結成大会に集まってくる。東京も地区で一本にまとまって代表を送りました。私は東京地区の書記長ですから代表の一人になって、帝国劇場の結成大会にまいりました。

 これが私の、浅草郵便局に帰ってきたときの経緯と、浅草の逓信従業員組合に入って僅か1ヶ月で東京地区の書記長になり、全逓の中心の仕事をするようになる経緯です。

戦後労働運動がスタートで抱えていた弱点

 そこで帝国劇場で行われた全逓の結成大会の話になりますが、これも裏話をすると面白い。

 その前に、浅草郵便局にはたまたま戦前の逓友同志会の幹部をやった人が、何人かおりましたから戦後に逓信従業員組合をつくるのに、戦前の規約とか知っていてつくったので非常に楽にできたと思います。

 しかし、この逓友同志会ができていたのは、東京、大阪、京都など非常に限られた所でした。北海道、東北、四国、九州などには逓友同志会の組織はほとんどありませんでしたから、これらの地方で組合をつくるときには大変な苦労があったと思います。民間労組の場合もそうだったろうと思います。ご承知のように、戦前の労働組合は「労働者は団結せよ」と言っても、全部でせいぜい40万人ぐらいしかなかったのでから。戦前のある程度の経験ある人は随分重宝がられたと思います。社会党系、共産党系の政党人はそういう点では、戦後も非常に重要な役割を果たされたと思います。

 しかし、戦後の労働運動の出発に当たって、非常に不幸だったと思うことが、2つあります。その一つは、なんといっても昭和15年(1940年)に労働組合が解散させられ、 総同盟は抵抗しましたが、日本では労働組合は完全になくなっていました。昭和20年にマッカーサーが乗り込んできて、有名な五大政策を掲げて、その中に婦人参政権の付与や 弾圧諸制度の廃止と並んで労働組合の復活も入っていました。マッカーサー司令部は明らかに昭和15年まで(日本には労働組合が)あったことを知っていて、それを復活させて、労働組合を認めろと言ったわけです。マッカーサーの五大政策の骨格に労働組合の復活、結成の自由が入った。そのために労働組合が雨後の竹の子のようにできていく。

 鉄道省でも、逓信省でも労働組合をつくろうという動きに対して、局長などが抑えつけて、マッカーサー司令部に通報されたら、それこそクビになる、危ないと、むしろ人的な面、場所を貸すこと、若干の資金面なども融通したことは間違いありません。そこで、日本流の労働組合ができてしまった。民間であっても、労働組合をつくらせないということになると、三井であろうと八幡製鉄であろうと、占領政策に対する違反であるとやられたら、社長もクビになるし、みんな一生懸命協力する。だから雨後の竹の子のように労働組合ができたことは明らかな事実です。アメリカ占領軍、マッカーサーの司令によって、労働組合が育成助長されたことを、私は否定してはならないと思います。

 世界の労働運動の歴史に、戦争をやって勝ったほうの国が負けたほうの国に入ってきて、労働組合をつくるべきだといって、これが最大の政策の一つだと言い、労働組合をつくらせた歴史はほかにはないのではないかと思います。日本の労働組合は明らかに与えられた労働組合として出発した。これは汚点というより、事実として率直に認めたらよいと思います。むしろそのことよりも、マッカーサーの指令のなかに労働組合の結成の自由だけでなく復活という言葉が入っていることに意義を認めたらどうか。戦前から労働組合はあったんだよ、と。明治の初めから鉄道にもあったし、いろんな組合があった。一番多くなったときで、40万という少ない数ではあったが、昭和15年に解散させられるまであった。私は「復活」という言葉に意義を感じたい。しかし、中味は明らかに育成助長された労働組合であった。この事実だけは、戦後の労働運動の出発にあたって、私自身がその渦中にあったことですが、明らかにしておきたいと思います。人はこのことをあまり言いたがりません。与えられた労働組合とは言っても、深刻には言いたがらない。しかし、『社会労働評論』にも私は書きましたが、これははっきりさせておきたいと思います。

 二つ目の問題は、戦後の労働組合運動にも、共産党系、社会党系、いろいろありましたが、戦前の労働組合はもっと政党とドンブリ勘定で、一つの事務所にあって、日労系だとか社大系、共産党系、社民系など、それぞれが政党と労組が一体で、お金もある程度そこから出して、労働組合プロパーのオルグをする人も党的なものからお金をもらって、机に座って、動く。ドンブリ勘定ですから、できる労働組合も政党系列になるのは当然です。

 戦後も、政党別の系列が労働組合に持ち込まれました。産別会議ができれば共産党、総同盟ができれば社会党系という形になり、戦後の労働組合が出発にあたって、共産党系も、社会党系も一緒になって一つにまとめようという形で始めながら、なんといっても共産党系には松岡駒吉、西尾末広といった人への反発が強かった。一方、松岡、西尾といった人たちにしてみると、逆に共産党はケシカランというものがありました。統一の話だけはしましたが、見事に壊れて、産別会議は共産党系、総同盟は社会党系と割れてくる。戦前の悪い弊害をそのまま受け継いでしまった。戦後に参加した、戦前派ではない労働組合の人もいつとはなしにそういう流れに埋没して、それは当然のようになり、その後も日本の労働運動にずっと、不幸な流れとして、残ってしまいました。

 この占領政策が労働組合の自立に与えた弊害と、戦後の政党と労働組合の混同による弊害については、戦後労働運動を語るときに、一つの教訓として考えておきたいと思います。

戦前最後のメーデーを見た

 因みに、昭和12年(1937年)の5月1日に、私はちょうど上野の松坂屋の屋上から、きっと動物園にでも行った帰りでしょう、急に下がやかましくなったので、じっと見ているとメーデーの行進がきました。このメーデーが大正9年の第1回メーデー以来ずっと続いていて、解散させられる前の最後のメーデーでした。もちろん、私はそれとは知らずに「すごいな」と思って見ていました。

 おそらく日比谷公園あたりに集まったのでしょう。上野まで行進してきて、先頭が上野公園に入るところでした。私は何の気なしに持っていた新聞を千切って、これは面白いと上から撒いた。すると傍にいた人に、「バカヤロー、そんなことをするとエライことになるぞ。警察に連れてかれるぞ」と怒鳴られた。しかし、私には、警察に連れて行かれる理由がわからないのです。 単に自分が紙切れを持っていただけで、それを花見のようにパッと撒いただけですから。

 ただ、大正9年に生まれた年が第1回のメーデーの年で、初めて見たメーデーが戦前最後のメーデーというには、私にとっては何かの暗示のようで、そんなことが、戦後の労働運動に飛び込んでいく自分の頭にあったように思います。

当局とのカネの関係と、当局側の理解者

 戦前最後のメーデーから9年経った5月、帝国劇場で開かれた全逓の結成大会が、私が初めて参加した全国の労働者の会議でした。これはおそらく私だけでなく、逓信従業員は北海道から九州までみんな初めてだったろうと思います。みんな手弁当でした。しかし、ここに問題があります。

 東京の中央郵便局が一番大きい職場で、浅草、小石川、本郷、そのころは電信も一緒ですから、中央電信局、中央電話局、簡易保険局、貯金局、こういう大きな職場がみんな入って組合をつくっている東京が中心になって、全国の結成を呼びかけたわけです。呼びかけるまでに、東京から北海道や九州までオルグに行っています。しかし、昭和20年(1945年)8月15日に戦争が終わり、東京中央郵便局や浅草郵便局に逓信従業員組合ができたのは昭和21年の1月です。3月には、戦前に逓友同志会をやった人たちが北海道や九州までオルグに行っている。その金はどこから出たのか。はっきり言って、逓信省でしょう。口にする人はいませんが、間違いないと思います。

 実は、戦前に、逓友同志会を温かく見守った官僚もいます。どこにも労働組合ができれば、それを陰に日向に面倒を見る労働担当の人はいます。その証拠に、芝の郵便局に逓友同志会の本部があり、そこへ私の父の下谷郵便局から、海老原哲という人物が行っています。彼は逓友同志会の副委員長として、半ば専従で行っています。そこには、半ば専従の人が7、8人いた。むしろ中央郵便局とか大きい所からは出ないで、小石川とか小さな所から出た人が何人もいて、それを逓信省は認めている。そのころは労働組合法も何もないんですよ。労働基準法もない。それでいて、現実にそういうことがあったんです。昭和元年、2年、3年ごろです。

 ということは、戦後、逓信従業員組合ができて、全逓の結成に向かっていく過程でも、戦前に組合の面倒をみた人たちが、戦後は逓信省の中枢にいて、協力したことは事実でしょう。当時の逓信省の労務課長に、楠瀬熊彦という人がいました。この人は、戦前の逓友同志会の面倒を非常に温かく、よくみた人で、戦前の郵便保険局の外勤の労働者、逓友同志会の幹部たちは「楠瀬さんには随分お世話になった」という人がたくさんいました。ですから、私が言うのは、金や旅費などは出ていただろうということで、これは間違いないでしょう。

赤絨毯を靴下で歩いた結成大会

 いよいよ全逓ができるわけですが、そこには明らかに政府当局者の支援、マッカーサー元帥の労働組合の復活、それをやらないと占領政策に違反という、「御用、御用」の十手を後ろに背負って労働組合がつくられたことは間違いありません。

 そして、5月の全逓結成大会ですが、会場の帝国劇場はそれまで名前は聞いて知っていても、入ったことのない所です。入りました。入って驚きました。そこに集まった人間の服装はといえば、ほとんどが軍隊の戦闘帽を被った人、雑のうを背負った人、兵隊の水筒を腰につけた人、履いている靴は軍靴、着ているのは軍服、海軍の水兵服を着ている人もいます。もっといいのは、航空隊の上等な飛行服を着た人もいる。これは上等です。

 なかにはまた、戦前の労働者、逓信労働者でも、背広の一着や二着は持っていましたから、結成大会だということで、ピシッと服を着込んで、ネクタイを締めてきている人もいました。私たちのような、兵隊上がりの若い者は、背広も持っていないし、兵隊の服を着ていった。

 そういう姿で帝国劇場に入ってみたら、驚いたことに床を見ると赤い絨毯が敷いてある。これは大変だ、こんな靴で歩いたら怒られちまう、とあわてて軍歌を脱いだ者までいる。靴下で歩こうとするから、「おい、ここは靴で歩いていいんだぞ」と言われて、「はい、そうですか」と、赤絨毯の上を軍靴で歩いて着席したという、落語のような笑い話でした。

書記局員は逓信省からの派遣だった

 逓信省の用品課から15名ほどの人が、全逓本部の書記局員として派遣されてきました。当時、全逓本部に書記局員は30数名いましたが、そのうち15名ほどの人は逓信省から派遣されていた逓信省の職員です。

 全逓本部は最初、東京中央郵便局のなかにおかれるのですが、すぐに大手町の逓信省の航空関係のバラックの建物に移動します。建物は航空保安庁の本部事務所の続きの長屋を貸してもらう。書記局員も15名ほど、逓信省からタダで貸してもらう。これは確か昭和23年の半ばごろに禁止されるまで、2年半ぐらいいました。しかも、逓信省から大型のトラックが1台貸し出されています。乗用車も1台貸してくれました。ほかにもう1台サイドカーが貸し出されています。

 昭和23年に、アメリカの占領軍の方針も、CIAの系統からAFLに変わるように、占領初期には、占領軍司令部の労働課員はCIAから来ていました。それから暫く経って、日本の労働組合が強くなってきたころに、占領政策が育成だけでなく、共産党に対する脅威を感じて、課員もAFL出身者に代わったところで、方針も変わったと私は感じるのですが、それまで逓信省出身の労組幹部には、逓信省から給料も出ていたのが出さなくなる。用品課の職員も引き上げる。

 もっと凄いのは、私自身が浅草郵便局から、東京地区の書記長になり、60数名の中央本部の執行委員になり、土橋さんと一緒に組むのですが、そのとき、私は給料を両方からもらっているんです。逓信省から700円ぐらいもらっている。全逓本部から役員手当として750円もらっている。1500円ぐらいもらっている。

 昭和23年まで、占領下で、土橋さんも、私も、みんな逓信省から給料をもらって、専従して、労働組合も金ができてきたから役員手当を出して、丸抱えで労働運動をやってきたということですよ。逓信省でもそうですからね。民間の場合はどうなっていたかというと、ドンブリ勘定ですからね。自由に、いいようにやっていたと思いますよ。

 私は、スト権奪還委員会の議長をやって、ILOで勝ったり、昭和38年ごろですか、栃木県評の労働講座に行ったとき、労働組合の幹部はそうやって、カネをもらってたんだ、 それが23年に切れた。組合(の専従者は)相手から給料もらって組合運動なんかしたらダメだ、と言ったら、金属の人だったか、立ち上がって、「私はいま、県評の会長しているが会社から給料もらっているが、マズイでしょうか」と聞いた。「それは直した方がいいでしょうなア」と言うんですが……この辺でよすかなア、(聞き手が)松本さんだから。

 民間は給料もらってましたよね。給料おもらいになっておった。全逓にしても、国労にしても、地方の市会議員、県会議員に当選しても、歳費と給料と両方受け取っていた。3公社5現業は兼務を認めたでしょう。国鉄は、国会議員をやめさせて、そのあと県会議員もやめさせたけど、市会議員は随分あとまで払っていました。専売の平林君は参議院議員になっても、専売公社から給料もらって参議院議員をやってました。これは例外ですけどね。

 いずれにしても、戦後の労働運動はそういう形でできてました。

結成大会の雰囲気

 全逓の結成大会(東京は全国組織を作るため、全逓信従業員組合の名称にしていた)の雰囲気を申し上げておきますと、会議のもち方は変わってます。大会を召集したのは、東京中央郵便局の出身者で、東京地区の委員長だった土橋(一吉)で、演壇の議長席にはいまでは大会議長を選んで議長がつきますが、戦前の組合大会は、組合長が議長席について、いまから大会を始めますと宣言して、議題に入る。戦前の逓友同志会がそうでした。戦後の結成大会も、正面に土橋さんが議長席に一人で座っている。そして司会者がいて「次は、大会準備委員長土橋一吉君」というと土橋さんが挨拶する。「それではこれから始めます」と言って、大会結成 までの経過が、議長席で述べられる。多数の来賓のなかで政党は社会党・浅沼稲次郎、共産党は長谷川浩です。

 それで大会は大揉めです。「なんだ」と。
 社会党は当時、浅沼稲次郎とか、片山哲とか、西尾末広とか、みんな知っています。共産党は徳田球一です。しかし、長谷川浩と言ってもみんな知りません。徳田球一か野坂参三、志賀義男なら知っています。ところが長谷川浩ですから、知らない。
 みんな、「長谷川、ひっこめ」
 「全逓大会を甘くみるな」
 「徳田を呼んで来い、長谷川さがれ」
 長谷川浩が演説できないんですよ。それをまたなだめようがないんです。誰も長谷川浩を知らないんだから。
 しかし、「まアまア、まアまア」なんてのがでてきて、しばらく経って静かになりました。
 それで長谷川浩が挨拶した。
 「なんだ、バカヤロー」
 「挨拶すんだら、さっさと消えろ」
 というような雰囲気でした。

 ところが、ある来賓が演壇にあがって、労働運動はがんばらなきゃならんと言うんだが、そのなかで「われわれは天皇制に苦しめられた。天皇制を打倒せにゃならん」とやった。これに対する野次は凄かった。いくら昭和21年といっても、みんな戦争に負けて、皇居前で土下座したり、拝んでからまだ1年経っていないんですから。天皇はまだ人間宣言をしたばかりです。確か、あれは21年の正月でしょう。まだ現人神ですよ。この人は、天皇制のところで野次られて演壇降りちゃったんですよ。いま、天皇制批判しても、受け取り方はいろいろあるでしょうが、おっぽり出されることはないでしょう。そういう雰囲気でした。

 後ろには「最低生活の保障」「基本給の全国同一化」などのスローガンが16本垂れています。土橋議長が「この、最低生活の保障、提案」と言うと、
 「そんなもの、わかった、わかった」
 「二つ目、基本給の同一化」
 「わかった、わかった」
 すると土橋が大きな声で、
 「提案に異議ありませんか」
 「異議なーし」
 するとドーン、と卓を叩いて、
 「決定しました」
 討論なしです。
 「それでは、次の項目、これについては皆さん、ご意見ありませんか」
 「異議なし」
 「決定しまーす」
 それで16項目、全部決定です。討論なんかないんですよ。全逓の結成大会はそのように終わっています。戦後の民間の結成大会はどうだったか、調べて比べてみると面白いと思います。

緊急動議で出た産別加盟案

 ここに一つ、問題があったのは、有名な長谷武麿(1846・昭和21年11月、全官公庁共闘会議設置に際して事務局長に就任。48年・昭和23年8月、全逓再建同盟準備会の発足の際、大木正吾、宝樹文彦氏らと実行委員に、1950年・昭和25年、総評結成大会で副議長に就任)、2・1ゼネストのときに、伊井弥四郎が全官公の議長で、事務局長が長谷武麿でした。伊井弥四郎が夜、(占領軍に強制されてスト中止の)放送をして全官公の本部に―東京駅前の鉄道省の8階に国労の本部もあったけど、全官公の本部もあった。鉄道省が貸してたんです―に帰ってきて、全官公の幹部をみんな集めた。私はしょっちゅう全官公の本部に行ってました。私はこういう 出好きの男ですからね。全官公に行って、様子を直接つかんで帰ってきて判断する。そういう点では、私も積極的でしたね。ところが、そこでいよいよ伊井弥四郎が帰ってきて 報告をする。「こういうことになりました」と。そこで今度は長谷武麿が、「全官公はここで2・1ストについては、残念ながら中止をすることになりました」と、ガーッと泣くところがテレビなどでいまでもでます。

 あの長谷武麿が、彼は2・1ストの後、東京3区から徳田球一と鈴木茂三郎と広川弘禅と争って、徳田球一を落として、3名区で、鈴木と長谷と社会党が2人当選するように立候補したことがある。全官公は議長の伊井弥四郎が国鉄、長谷が全逓の出身者でした。2・1ストが大きくなったとき、全官公だけでなく、全国労働組合共同闘争委員会=全闘ができ、その事務局長は片島港(全逓)でした。後に宮崎県から衆議院議員(社会党)に出た人でした。全逓はそのように多くの人を 出しています。

 長谷武麿はそういう男でしたから、私とは非常に仲がよくて、死ぬまで一緒につきあっていましたが、その彼が全逓の結成大会で、後で大きな問題になる発言をしたのでした。(後年、彼はあの提案はまずかったなと言っていましたが)結成大会は、大した討論もなかったにですが、一番左端の下のほうから、彼がいきなり、「議長」と手をあげました。彼は身体も大きかったので、すぐ目にとまります。
 「緊急動議」と叫ぶ。そう言われても、みんなまだ会議の持ち方も知らないんですよ。長谷はどこで調べたのか、知っているんです。彼は頭がいいからね。演壇なんか登らないんです。
 「いまや労働運動は、全逓も結成されて、全国に組織が確立されている。しかし、これだけではダメだ。この上に、もう一つの組織体が結成されつつある。そのことを考えるなら、わが全逓信従業員組合は―まだ、労働組合とは言っていなかったんです―産別会議に即時加盟すべきである」と、こうきた。ところが、地方から集まった人たちは、まだ何が産別で、何が総同盟か、何がどうなっているか、知りません。賛成する者も、反対する者もいないから、議長も困ってしまった(産別会議もまだ結成準備会の段階なのだが)。
 「いまの緊急動議をみなさん、どうしましょうか」と、言ったが、やがて誰かが知恵をつけたのでしょう。
 「それでは、いまの緊急動議をうけたまわりまして、これから選出されます中央執行委員会において慎重に討議をして、決定することにいたしますが、よろしゅうございますか」。みんな訳がわかりませんから、ワーと拍手して、産別に入ることが(前提として)決まったんです。すぐには入りませんでしたが、結局、この決定がありまして、産別に入ることになります。

 このときに役員の選出も行いますが、北海道から九州まで1名ずつ委員がでますが、みんなわからないから、「東京の人にやってほしい」ということで、土橋が中央執行委員長になる。そのとき、問題になるのは、北海道の委員長の坂本という人を、これがなかなか切れ者だから、彼を出そうという動きがあった。結局、これは途中で消えるわけですが、もう一つ、土橋は中郵の職場で、戦前派から反対されていた 

 私は、中労委で、徳田球一や西尾末広、松岡駒吉といった労働側委員と会っていろいろな意見を聞かせてもらっていました。徳田球一さんに「土橋さんは中郵では、反対者が相当いる。こういう人が委員長になるのは、どうなんでしょうか」と聞きますと、徳田さんは「宝樹さん、そういうのはダメなんですよ。本来は、職場で選ばれた人が出てくるべきで、職場で信頼がない人は、宝樹君、ダメだよ」と教えてくれました。

 土橋さんに反対があったのには、東京中央郵便局に組合ができるとき、高橋という逓友同志会の流れをくむ人が結成の旗をふったという事情がありました。同時に、麻布の郵便局にも、同じ流れで旗をふった青野という人物がいました。そういう人たちが集まって、東京中央郵便局の会議室で全逓の東京本部をつくるわけです。高橋という人がその中心でした。ところが、いきなり土橋さんが出てきます。土橋さんは明治大学を出ていて、英語も非常にうまい。高橋より俺が立候補するということで、役員選挙で高橋という人を落としてしまいます。土橋さんのこの動きに対する反発が出てきて、高橋が中心で、なにが土橋だ、という渦が東京にできてくる。 それがあるもんで、土橋を下げて、全国の委員長を北海道から出すべきだという動きになったわけです。そういう問題もありました(戦前派と戦後派の対立です)。

 このときの中央執行委員の数は、何と120名ぐらいでした。その半数は常駐、半数は地方にいる非常駐で、中執があるときに出てくる。そういう不規則な中央執行委員会の構成でした。(次号に続く)