和諧社会めざす中国を訪問して 山内正紀



23年ぶりの北京

 2007年6月22日(金)から29日(金)の期間、曽我祐次北東アジア研究所所長を団長とする「日中国交正常化35周年記念社会民主党活動家訪中団」の一員として、中国を訪問する絶好の機会を得た。招聘先は、中国共産党中央対外連絡部(中連部)であり、総勢8名の団である。

 私が初めて中国を訪問したのは1983年であった。当時の深田肇社会党青少年局長の下、山下初男議長を団長とする社青同全国協団の秘書長として、党青少年局、全青連の団とともに訪中し、ケ小平氏によって78年以降進められた中国の改革・開放の息吹の一端に接した。それは感動的な中国との出会いであった。このとき会見した劉延東中華全国青年連合会副主席は、現在、党統一戦線部長、政治協商会議副主席を務められているという。

 翌84年、当時の胡耀邦中国共産党総書記の招聘で、日本の青年3000人が中国を訪問し、日中青年の大交流が実現した。その際、社青同全国協メンバー20人が上海、南京、北京を訪問し、私も団長として参加した。後の87年、平壌を訪問した際の行き帰りに北京に立ち寄ったことはあるが、実質23年ぶりの中国であった。実に永い間、中国訪問から遠ざかっていたことになる。

 訪中団は、22日(金)午後、趙世通中連部日本処処長、王一迪処員らの出迎えを受け、 北京に到着した。来年のオリンピック開催を控え建設ラッシュに沸く北京であったが、自動車が増え、そのせいか空はスモッグに覆われ、少し先のビルでさえ視界が不明瞭である。23年ぶりに訪れた北京の強烈な印象であった。夕刻、宿舎である釣魚台大酒店(ホテル)で、劉洪才中連部副部長と会見し、招待宴で懇談する機会を得た。この会見、宴には李冬萍中国経済連絡センター主任(前中国駐日大使館参事官)が同席された。

 翌23日(土)は、新農村・鄭各庄の視察と首都博物館見学、瑠璃廠散策、24日(日)は、ゴルフのできる人は日中友好コンペ、ゴルフのできない私は万里の長城、天安門広場、故宮を見学した。万里の長城には、北京オリンピックをアピールする「ONE WORLD ONE DREAM」との看板が設置されていたが、一人のスポーツ愛好家としても、その成功が望まれてならない。25日(月)午前には、趙処長、王処員、林明星処員(林先生には、王府井を案内いただいた)の中連部日本処の皆さんと「参院選と日本政局のゆくえ」をめぐって意見交換し、また午後は中央党学校において、「社会主義調和(和諧)社会の歴史的位置」について、康紹邦教授・中国共産党国際戦略研究所常務副所長、李科学的社会主義教育研究学部教授に質問し、説明を受けた。

 以上が北京での日程であるが、この間、夜は林リ中国駐日大使館参事官(元日本処処長)のお連れ合いである曹英旺先生や李軍中連部2局局長による招待宴をそれぞれ設けていただき、貴重な懇談の場を得た。これは、曽我団長や笠原昭男副団長、平光兼正秘書長らの永年の日中友好運動への献身、2000年以来、陜西省・彬県において植樹活動を行ってきた「日中友好21の会」が築いてきた活動の賜物であり、私はそのお相伴に与ったことになる。

 宿舎である釣魚台大酒店は、朝鮮問題をめぐる六カ国協議の会場である釣魚台国賓館の近くにあった。私としては、今回の訪中を、北朝鮮核問題と6カ国協議の行方、さらに世界多極化など国際情勢の現特徴への理解を深める機会としたいと思っていたが、学習懇談のテーマが「調和社会(和諧社会)」に定められ、また時間の余裕もなく、盧溝橋見学を含めて当初の思いが達成できなかったのはとても残念であった。今年は盧溝橋事件から70年である。しかし、それでも招待宴での各先生方との懇談では朝鮮問題も話題とされ、一定の理解を得ることができたのは幸いであった。

 アフリカ諸国歴訪から帰国されて間もない劉洪才副部長は、4月北朝鮮も訪問されたということであったが、「核についてのスローガンはすべて街中から外されていた」と北朝鮮の変化を指摘し、同時に日本外交の孤立について述べられた。私たちが訪中した翌日の23日、ホテルの部屋に置かれた英字新聞『CHINA DAILY』(中国日報)には、GOOD″talks in Pyongyangとの見出しで、「(訪朝した)クリストファー・ヒルは、北朝鮮が今週にも核封鎖をする用意があると語った」との記事が載っていた。北朝鮮核問題をめぐる情勢は大きく変わろうとしている。李軍2局局長によれば「6カ国協議は再開されるであろう」とのことであった。

安徽省・黄山市へ

 北京での日程を終えた25日深夜、訪中団は安徽省の黄山市に向かった。北京から2時間弱の空路である。安徽省は、中国の東南部、揚子江の下流に位置する。黄山市はその安徽省の南部にあり、浙江省と江西省に接している。黄山市は現在、屯渓、黄山、徽州の3区と休寧県、歙県、夥県、祁門県の四県を管轄していると、現地通訳の梁さんの説明であった。人口は142万人である。

 黄山市の黄山風景区は、奇石、怪石、雲海、温泉で有名で、1990年にユネスコの世界文化および自然遺産に登録されている。その黄山には、26日(火)に登ることとなった。曽我団長を始めとする長老組はゆるやかなコース、他はやや険しいコースに分かれて登山することになったが、長老組に追随しておれば良いものを、体力もないのに蛮勇をもって険しいコースを選択したのが、私の失敗であった。「選択の自由」の現実は厳しいものである。石の急な階段が延々と続く。これには参った。事前に読んだ観光ガイドブックには「山頂へゆるやかな階段が続く」と書いてあったのだが・・。甘かったのである。先行組に大きく遅れ、団の山田さん、戸井田さん、松延さんの哀れみの視線に耐えながらも、しかし刻苦奮闘、黄山第2の高い峰である光明頂に到達し、すばらしい景観、墨絵の世界に出会えたのは僥倖であった。

 黄山でいま一つ印象的であったのは、韓国からの観光客の多さである。韓国からの北朝鮮・金剛山ツアーも人気と聞くが、韓国の人たちは「山岳」に格段の思いを寄せているのだろうか。「風水に関係しているのではないか」とは、団の牧野さんの言葉であった。麓の街にはハングル文字で書かれた店舗もあり、「済州島」との漢字もある。韓国資本の出資?など中韓関係の深まりを実感する黄山でもあった。

 黄山市には、多くの観光スポットがある。夥(イ)県は黄山市の最も古い県であり、2000年の歴史をもち、徽州建築の古民家が村に現存し保存されている。牛に似た形から「牛型建築」と呼ばれる宏村も一つで、これは清代に形成された村落であり、西逓村とあわせユネスコ世界文化遺産に登録されている。つまり、黄山市には黄山風景区と宏村・西逓村の2地区の世界遺産があるということになる。黄山から下山した27日(水)、この宏村を見学した後、休寧県の新農村建設モデル村である塩舗村を視察し、さらに黄山市の中心地にある屯渓胡開文墨廠・老街を見学、遊覧した。有利な観光資源を経済発展に生かしたいとの関係者の思いを痛感した。28日(木)は、胡錦濤国家主席の先祖の地である宣城市積渓県の龍川村に行き、胡氏宗祠などを見学した。ここも徽州建築で形作られた古村落であるが、2005年に再建されたという。胡錦濤時代の到来と軌を一にしている。

 今回の訪中団の1つの目的は、中国の進める改革・開放政策の下で顕在化する「三農問題」への理解を深めることにあった。龍川村見学の後、桃花源という別荘販売地(いわゆる不動産開発である)見学を経て、宿舎である黄山国際大酒店で、黄山市貧困救済弁公室の徐金来主任の話を聞く機会を得た。その後は、王啓敏中国共産党黄山市書記との会見・歓迎夕食会である。人間的な魅力を感じさせる王書記であり、黄山市の歴史と文化の深さを紹介しながら、「人間と自然の調和のとれた都市をめざす」「汚染のない工業、ハイテクノロジーをめざす」と発言されたのが印象的であった。そして、「皆さまを通して、日本の多くの人が黄山市を訪れてほしい」とのことであったが、私からも黄山市訪問をお薦めしたい。黄山市は風光明媚で、徽州文化(敦煌文化、チベット文化と並び、中国3大文化の1つとされる)や歴史を実感できる良いところである。この場には、貨元非中国共産党黄山市常務秘書長、舒志民黄山市人民政府副市長、桃安那黄山市人民政府外事弁公室副主任などが同席された。この後、訪 中団は空路、上海に向かった。約1時間の旅である。

胡錦濤政権と和諧社会

 今回の訪中団の学習テーマは、「調和(和諧)社会の歴史的位置」であった。調和と和諧の意味は同じである。和諧社会とは何か。2005年3月の第10期全人代第3回会議での政府活動報告では、温家宝首相が次のように述べている。「現在、中国社会の発展には、農村の発展が遅れていること、人々の収入の差が大きいこと、社会安定に影響する要素が大きいこと、資源の制約や環境からの圧力が大きいことなどの問題が存在している。これらの問題に対して、中国政府は一連の措置を講じて、民主的な法による統治、公正と正義、誠実と友愛、満ち溢れた活力、安定した秩序、人と自然の和睦などで互いに対処できる調和のとれた社会の建設に力を入れる」

 これは分かりやすい説明である。北京の中央党学校での話では、都市住民と農民との所得格差は放置できないレベルにあるとのことであった。

 中央党学校では、和諧社会が提起された歴史的経過を説明いただいたが、それは次のような趣旨であった。

 「中国社会主義には57年の歴史がある。1978年の改革・開放までは、何が社会主義か不明であった。78年以来、社会主義とは何かを模索してきたが、ケ小平氏は貧困は社会主義ではない、2級文化も社会主義ではないとした。そして、生産力の開放・発展、搾取や2級文化の廃止をめざした。物質文明、政治文明、精神文明の建設である。この提起は中国共産党全体の賛成を受けた。

 その後、中国は大きく発展したが、その過程で生じた社会的矛盾に対応して調和・和諧を重視している。2002年の第16回党大会では、2020年までに小康社会(いくらかゆとりのある社会)を全面的に建設することを打ち出したが、その呼びかけのなかで、和諧に言及した。2004年の第16期4中全会では『中国共産党の執行能力を強化する決議』が行われたが、重要なことは、ここで社会主義和諧社会構築能力の向上が提起されたことだ。2005年の5中全会では、初めて国民経済発展のなかに和諧社会を位置付けた。2006年の6中全会では、社会主義和諧社会の実現は中国共産党の目標であるとし、中国の特色ある社会主義の本質的属性であるとした」

 このように、和諧との言葉は、すでに2002年の第16回党大会で使われている。しかし、その本格的展開は、胡錦濤総書記のリーダーシップが確立して以降のようである。とりわけ、第16期6中全会(2006年10月)で「社会主義和諧社会の建設に関する若干の重大問題に関する決定」が採択され、今秋の第17回党大会で胡錦濤総書記が行う活動報告の基調となることが決まった。この間、「和諧」「和諧社会」「社会主義和諧社会」と整理され、深化してきているのが特徴であろうか。「社会主義和諧社会建設」は、環境保護や省エネを重視し社会の均衡ある発展をめざす「科学的発展観」、法治主義・反腐敗を強め、党の求心力を高める「執行能力強化」、国民に基盤を置いて世論を重視する「親民政治」とともに、胡錦濤政権を特徴つけるキーワードであり、コンセプトとなっている。

 社会主義和諧社会建設の本格的展開は、これからの課題であり、街のなかにも和諧社会のスローガンはそう多く目に付かなかった。黄山市をバスで移動中、趙世通日本処処長より、胡錦濤総書記が、第17回党大会開催を直前に控え、党、政府、全国人民代表者会議幹部に演説した重要講話の一端を紹介いただいた。和諧社会など胡錦濤政権の方向性は、党大会でより全面的に開陳されることになるのであろう。なお、和諧社会の実現には、政治改革が必要だとの指摘があるが、政治改革については議論する場と時間がなかった。

新農村建設と2つのモデル―鄭各庄と塩舗村

 社会主義和諧社会建設のなかで、重視されているのが新農村建設による三農問題解決である。三農問題とは農業、農村、農民のことであり、具体的には「農業は危うく、農村は貧しい、農民は苦しい」とされる農業の低収益と低生産、農村の荒廃、農民の低所得と高負担の問題であり、都市と農村の調和的発展に関わる問題である。中国共産党は、「社会主義新農村建設は、長期的な歴史的任務であり、『三農』対策の強化は重要な戦略的措置であり、小康社会構築と社会主義近代化建設の大局にかかわるもの」(2005年12月、中国共産党中央政治局会議)としている。

 今回、訪中団は2箇所の新農村を見学した。1つは北京市郊外の鄭各庄、いま1つが黄山市の塩舗村である。これは農民の貧困脱却へむけたモデル地区見学であるが、しかし新農村建設モデルと一括りに言っても、この二箇所には大きな違いがある。

 鄭各庄は、まるでテーマ・パークのようであった。遊園地を走っているような観覧用自動車に乗って、案内いただいた。黄福水党書記によれば、300年の歴史をもつこの村はここ10年で大きく変化した。合弁企業・工場を誘致し、株式市場へも参入した結果、いま農地は残っていないし、戸籍上は1300人いる農民もすべて産業労働者になっている。大学も2つあり、学生を含めた総人口は3万人以上。また、温泉を中心とした観光宿泊施設を作り、北京オリンピック用の新たなホテルも建設中であった(すでにヨーロッパ客の予約が取れていると言う)。

 こうした工業化と観光地化によって先行発展しているのが鄭各庄であるが、いま1つの特徴は集団主義を貫いていることである。村の収益は、集団的に分配し、コメ・油は無料で配給、光熱費は村が負担するなどの結果、所得格差はほとんどないとのことであった。株式参入をしているのだから、そこからの収益もあがっているのであろう。地域活動センターの施設も充実していた。年間収入は、2500米ドルとのことであった。黄福水党書記は、温都水域という企業の理事長でもある。

 一方、黄山市の塩舗村には、山間ののどかな農村風景が広がっていた。人口は1100人で、農民は6組に分かれているという。昨年の1人当たりの平均収入は6177元、今年は1万元を越えそうだとのことであった。今年3月の第10期全国人民代表大会第5回会議での温家宝総理の報告では、「農村部一人当たりの純収入は3587元」とあるから、これはかなり高いレベルと思われる。そのせいであろう、民家の改築が目立っていた。主な収入源は菊茶栽培で、訪れた民家には菊茶の乾燥機が備えつけられていた。随行いただいた朱文勝休寧県人民政府副県長によれば、ここの自然緑茶(有機農法か?)は北京オリンピックの指定茶となっているという。

 農村に観光産業を育成していくことは、中国政府が政策化していることで、「農家楽」というそうだ。塩舗村も、国が新農村建設キャンペーンを展開し、観光業への農村の参加を保障したことで、池や山荘を作って、リゾート客の誘致をめざしている。新しく作られた池の周りにはソーラーパネルが設置してあり、民家にはバイオガスによる自家発電装置が備えつけられていた。バイオガス重視も国家政策であるが、塩舗村は国策に応じて環境保護、省エネを意識し、グリーン・ツーリズムの展開、エコ・ツアー客の誘致で新農村建設をめざしているように思えた。実際、都会から客が農家に泊まりにきたり、農家での食事を楽しみにくるという。この塩舗村は安徽省黄山市、鄭各庄は北京市郊外である。その地理的な違いはあるが、塩舗村は鄭各庄とは違って、農業を基礎に生産性と付加価値を高め、同時にリゾート地としての開発・発展をめざしていることが実感できた。農家楽からの収益は免税である。ただ一般的な問題として、開発資金がなく、知識・ノウハウにも不足していると、後に黄山市貧困救済弁公室の徐金来主任から聞いた。

 こうして訪中団は、2種の新農村モデルを見学した。鄭各庄には、すでに農地はない。農民は産業労働者に転換し、戸籍上の農民が残っているだけである。これは新農村建設とは呼べないのではないか。そこから「新農村建設とは何か」と団の論議にもなったが、三農問題対策としては理解できることである。つまり、三農問題の根本的解決には農業の収益性を高めて農民の所得を増やすかあるいは製造業や観光・サービス業への転出による雇用移転、また出稼ぎによって農業人口を減らすことが必要なのである。それぞれの実践モデルが、鄭各庄と塩舗村ではなかったかと思う。

黄山市における三農・貧困問題への対処

 新農村建設は、三農問題解決と一体のものとして提起されている。中国共産党は、「常に三農問題の解決を全党の活動の重点中の重点」とすべきであるとし、「これまでとは逆に、工業によって農業を育て、都市が農村を支援し、『多くを与え、少なく取って、活性化をはかる』方針」(2005年12月、中国共産党中央政治局会議)を打ち立てている。農民所得向上のため、2006年1月1日から農業税が廃止された。これは中国の歴史にとって、画期的なことである。

 黄山市貧困救済弁公室の徐金来主任の話によれば、黄山市における貧困をめぐる状況は、概略、次の通りであった。

 「中国の貧困層は、1995年までは1人当たり年収720元以下と定義されていた。2005年以降は貧困人口を2つに区分している。1つが絶対貧困人口で、年収は680元以下である。いま1つ、680元から924元を低収入人口としている。いま黄山市の貧困人口は両方を含めて、安徽省人口の1・5%を占めている。

 貧困の原因は2つある。1つは、黄山市は山が多いという地理的条件にあり、またダム建設によって水田がなくなるなど、1人当たりの平均耕地面積は0・67ムー(1ムーは6・667アール)と少ない。いま1つは、1987年に黄山市ができた時、インフラ整備に立ち遅れていたことである。加えて、もともと低収入の上に、病気になった際の治療費が高く、それが原因で貧困になる人も多い。身体障がいの人も貧困である。

 この間、国・省の指示と支援の下、市財政を含め貧困救済基金3・7億元を投入して対策してきた。これによって発展が進 み、貧困人口は1987年の17・5万人から、2006年には2万人へ減少してきた。1人当たり平均年収も上昇している」

 黄山市の貧困救済策は、3段階(1986年から1993年の第1段階、1994年から2000年の第2段階、2001年から2006年の第3段階)を経て、計画的重点的に実施されてきたという。具体的内容を詳述する余裕はないが、その対策の中心は現金・物資の投入による直接生活支援と各種インフラ整備、農村の生産能力・農民の収入向上をめざした付加価値増加策とそこへむけた技術指導であると思われる。徐主任からは、道路や橋の整備、学校修理、テレビタワー建設、水利施設整備、飲み水設備新設、衛生改善、貧困家庭児童への教科書・文具配布、9年義務教育の保障、新聞『黄山日報』の寄贈、映画上映、さらに市公務員・科学技術指導員の派遣(派遣先での1対1の対応を重視し、貧困脱出が達成されるまで市に帰さないとのことであった)と技術者育成、造林、養殖とともに果物・お茶・桑・しいたけなど作物の多品種化、企業集団化など多岐にわたる報告をいただいた。

 しかも、貧困脱出策でめざされるのは「輸血から造血」とのことで、農村・農民自立のための支援の精神が意識されていたし、貧しい郷を合併して鎮とする行政改革も構想されていた。なかで、注目されたのが「労働力の移動」政策への言及であった。農民に科学技術力を取得させ、都市部へ労働者として送り出すことは、現代中国の農民貧困救済策の重要な1つになっているのである。黄山市からの出稼ぎ(民工)は、全農業人口の30%を占めるということであった。

 中国農民の貧困問題に関しては、日本のマスコミが報道する暴動や紛争問題がある。安倍訪中による一定の日中関係改善で、この問題は靖国参拝問題に取って代わって、日本の反中国世論の培養・高揚へ利用されている。しかし、こうした問題が中国で起こっているのは事実である。中国の作家である陳桂棣・春桃夫妻が書いた『中国農民調査』(文藝春秋刊)を読めば、違法徴収による負担の重さにたまりかねて行政に訴えたが、現場幹部に妨害され、派出所でリンチ殺害された丁作明死亡事件や直訴騒動など悲惨かつ深刻な例がルポルタージュされている。これが中国農民のすべてではないが、北京の中央党学校では、農村での暴動や紛争などトラブル発生の原因は2つあり、1つは農地を工業団地に転換することで農地面積が減少していること、いま1つがその際、企業と農村幹部・末端行政政府とが癒着している場合があるからだとの率直な指摘があった。

 丁作明リンチ死亡事件の場合は、国の農業税と郷村が徴収する費用が農民への過剰な負担となり、貧困を招いているという「税費」問題が背景にある。中国政府の農民税廃止策もこうした現状の改善をめざしたものである。この事件の舞台は安徽省である。安徽省は中国農村で最も貧しい地域の一つとされる。私たちが訪れた黄山市も安徽省であった。こうした農民とのトラブルが起きているのか、徐主任に団から質問したら、「私がこの仕事をして12年になるが、黄山市では一件も起っていない。市の指導案は人々に理解されている」「他で起きていることは聞いている」とのことであった。黄山市の対策は成功しているのであろう。党・行政幹部の姿勢も影響しているのだと思う。励まされることである。

 この「三農問題」については、『進歩と改革』2005年9月号(NO645)に、今回の団長の曽我さんより「和諧社会は三農が鍵」と題する論文を寄稿いただいている。是非、参照していただきたい。

大きく変貌を遂げた上海

 上海の滞在は短かった。29日(金)、上海城市規画展示館を見学した。ここは上海市の誕生から発展、今後の都市計画を紹介する展示館で、上海の新しいシンボルになっているという。2010年に万博を控えた上海であるが、さらに遠く2020年(この年は、全面的小康社会建設を実現する年である)までの都市計画を現す巨大な模型、かつての上海から今日の上海への変化を示す写真、ディズニーランドの、あるパピリオンのように擬似上空からの都市映像を見たが、それは物凄い発展という以外にない。私にとって上海訪問は3回目である。かつてのイメージは変わり、ショッピングをした南京路を含め大きな変貌を遂げていた。もちろん、発展が悪いわけではないし、貧しさが社会主義ではない。問題は開発と環境の関わりである。感想を求められた曽我団長は、「上海の今昔を見てその発展を思う。願わくば、自然環境との調和を」と揮毫されていたが、まったく同感である。また、銀行の多さが目に付いた上海であった。金融株式経済の先頭を走っているのが上海であろう。この点でも、興味は尽きないが、訪中団は、当日夕刻に上海を出発し、帰国した。

 久しぶりの中国訪問は、中国の改革・開放のエネルギーとこの間の変貌ぶりを実感するものとなった。同時に、天安門広場での障がい児の物乞いなど、その過程で現れた厳しい矛盾、いまだ解決していない困難な状況も見ることとなった。和諧社会実現、新農村建設、三農問題解決にむけた努力も理解できた。純粋培養な社会経済建設などできないのだし、矛盾は社会発展の原動力である。帰国したいま、今後の中国社会主義和諧社会の建設・前進を期待したいとの思いで一杯である。

 実は、私が中国訪問から遠ざかっていたのには、1つの理由がある。87年の胡耀邦総書記の失脚である。日本のマスコミは、その失脚の一つの原因に84年日中青年大交流が中国経済に混乱をもたらしたことを挙げて報道した。当時の中曽根首相の靖国神社公式参拝を許したこともあって、心が重たかったのである。このことを北京で率直に話す機会を得たが、「それは日本のマスコミの意図的な報道である。胡耀邦氏については、その功績と86年の学生民主化要求デモへの対応の失敗を含めて評価は定まっている」との趣旨の答えであった。ありがたかった。少し心が軽くなった。この点でも、今回の訪中は私にとって有意義なものであった。日中青年交流は、私たちの訪中の直前に復活した。中国側が、84年に訪中した「青年」とその家族約200人を改めて招請したのである。

 最後に、多忙ななか会見いただいた劉洪才中連部副部長を始め諸先生方、上海まで同行案内いただいた趙世通中連部日本処処長、王一迪処員の各先生、お世話になったすべての中国の皆さん、そして中国訪問の機会を与えていただいた曽我団長、さらに訪中団の皆さんに心より感謝申し上げる。