福島原発事故と地震について 電磁波環境研究所 荻野 晃也



はじめに―一番心配している3号炉

 私が原発問題から離れて「電磁波問題」をやり始めた経過は、『進歩と改革』1997年8月号に掲載された「科学と人間:原発、地震予知、電磁波」のインタビュー記事に書かれていますから、読者の方は良くわかっておられると思います。

 私が『進歩と改革』に書いた最初は、1993年11月号の「電磁波問題特集」の「電磁波の人体に及ぼす影響」でした。この記事は「電磁波問題」を取り上げた最初の記事だといって良く、その後から電磁波問題が少しづつ知られるようになり始めたのです。その後、小生が「地震と原発問題に詳しいらしい」とのことで、「兵庫南部地震と原発」を1995年4月号5月号と連載しました。その連載記事をお読み頂ければ、今回の「福島原発事故と地震の問題点」とがある程度はわかるはずです。 それらの後、『進歩と改革』に書くこともなかったのですが、福島原発事故との関係で、再び原稿依頼が来たのですが、私よりも「原発と地震」に詳しいと思われる人を紹介したのですが断られてしまい、結局、私が書くことになりました。

 これを書いている3月23日の時点では、福島原発の事故はまだ終息しておらず、いまなお冷却作業が必死に行われているわけですから、事故や水素爆発などの原因に関して、書くことは時期尚早だと思われます。22、23日には3号炉で火災があり、黒煙が立ち上っているのをTVで見て、「何が起こっているのだろうか?」と不安になりました。私が一番心配しているのが、この3号炉だからです。3号炉だけは、プルトニウムを燃料としたMOX燃料が使用されているからです。MOX燃料は、ウラン燃料よりも100℃ ほど融点が低くて溶融しやすいからでもあり、また最も毒性の強いといわれるプルトニウムを多量に内蔵しているわけですから、環境への漏洩があれば大問題です。とにかく、それらの事故のことは次回に書くことにして、今回は「日本における地震と原発」問題について、「何が問題だったか」ということについて書くことにしました。以前に書いた「兵庫南部地震と原発」の記事とオーバーラップするところもありますが、お許し願いたいと思います。

福島原発は「加害者」そのもの

 「地震と津波」で強烈な被害を受けた「世界最大の原発基地」である福島原発が、まるで被害者の様にいわれているのですが、私は逆に「福島原発こそ加害者である」という気持ちになっています。日本最大の企業である「東京電力」は、福島県では神様のような存在でした。反原発運動が住民の中で全く起こらなかったといって良いような、極めて稀な原発が福島原発でした。双葉町などへ行った人は、豪華な公共施設に驚きます。まさに原発が福を呼んで来てくれたのであり、反原発など言いだすことは出来ないような雰囲気の町だったのです。多数の行方不明者が出ていても、放射能汚染のためもあってボランティアも行けず、まさに「地震・津波・放射能」の三重苦に遭遇したといえるでしょう。そのことを考えると、福島原発の存在は「加害者そのものだ」と私は思うのです。

 そればかりではありません。日本の原発立地とも深い関係があるからです。東京電力は原発建設では関西電力と共に日本の最先端を行く企業であることはいうまでもありません。その東京電力が福島県の浜通りに、関西電力が福井県の若狭地方に原発建設を計画したのは1960年代の初め頃でした。政府の強い後押しもあり、米国から沸騰水型(BWR)と加圧水型(PWR)とを導入することになったのですが、東京電力は米国GE社の開発する沸騰水型・原発を導入することとなり、日立と東芝が製造することになったというわけです。ところが、原発には膨大な放射能が内在されています。人口の多い日本ですから、炉心が溶融するような大事故が起こればとてつもない損害になります。手を出すにはリスクが大きすぎます。そこで、原子力損害賠償法という法律を作り、「地震と戦争」などの巨大な被害の場合には「国が責任を持つ」ことにすることにして、企業の責任を少なくしたのでした。それでも、日本で起こりうる地震のリスクが大きいことはいうまでもありませんが、地震に対する備えを万全にすることは建設費用の点からも避けたいのです。その典型例が福島原発の場合だったといえるでしょう。

伊方原発訴訟が提起した地震問題

 その頃の日本の地震学会などは「地震の原因」を活断層だとは考えていませんでした。地下のマグマが湧き上がってきて地震になると考えていたのです。原発にとって最大の脅威は「地震と戦争」です。ミサイルを撃ち込んだり大掛かりなテロなどがあれば、炉心溶融につながるからです。また地震力の想定は、どのような地震を考えるかに依存します。そこで、日本では「過去の地震が過去と同じ規模で同じ場所で起きる」ことにしたのです。その結果、いわゆる「過去に地震の起きていないような空白地域」が適地として選ばれることになりました。伊方・島根・若狭・柏崎・福島と原発が立ち並んだわけです。その地震問題を中心の一つとして主張したのが伊方原発訴訟でした。その訴訟での私の主張は、1995年4月号5月号の『進歩と改革』に書いてありますから、関心のある方はそれを読んで下さい。

 1970年代になって、米国を中心に「プレート・テクトニクス説」と地震との関係が明らかになり始め、プレート間に発生する強大な地震や内陸部で発生する大地震が、いずれも「活断層が動く」ことを原因とするらしい・・・・とわかってきました。それでも、地震研究の先進国であると自認する地震学会(東大などが主導しています)は、それにはナカナカ乗りませんでした。その間にも、空白地域に原発が立ち並んでいったのです。「1300年前からの地震記録がある日本」というのが自慢でした。しかし、福島原発の敷地周辺は過疎地であったはずで、古い地震記録はなかったはずです。いわば、福島原発は東京電力・日立・東芝・政府・官僚・自治体・東大などが作り上げた世界最大の地震の危険性の高い原発基地であったといって良いでしょう。

 活断層説が浮上してくると、原発にとっては「活断層を小さく評価する」ことが重要になります。そのことが、伊方原発訴訟でも中心的な争点の一つになりました。「伊方原発」は瀬戸内海の内陸部にありますから、津波の記録が無いことは確かですが、それは、過去の「記録」が不足しているにすぎません。伊方周辺では500年前以降ぐらいからの記録しかないのです。活断層は現在も続いている「第4紀層」の地殻変動と関連するのですから、少なくとも180万年間の地殻変動の予想が必要なのですから、記録があるはずがありません。それだからこそ、米国は徹底した活断層調査を法律で義務付けているのです。伊方訴訟では、眼前にある世界最大級の活断層である「中央構造線」が問題になったのでした。  

 四国電力の申請書では、伊方原発に及ぼす地震力は僅か180ガルの加速度であり、内閣総理大臣も「加速度200ガル、津波高4mの設計」などで「安全性が確保できる」として許可したのでした。多くの問題のある許可に怒った住民たちは、1973年に認可取り消しの訴訟を起こさざるを得なかったのです。しかし、裁判所は住民の主張を認めず、最高裁も国の認可を認めたのです。

 その最高裁判決から17年たって、私は『愛媛新聞』の取材を受けました。中越沖地震で柏崎原発が大事故を起こしたことで、地震力の見直しが行われ、「伊方原発の地震力想定が570ガルになった」ことを受けた取材でした。その新聞記事を最後に示しておきます。 伊方訴訟は、「東大と京大との争いだ」とマスコミの方々にいわれたことを思い出します。反対住民側に立った証人の多くが京大の研究者だったからです。そのことを思いだしながら、美しいこの豊かな日本の大地を、放射能まみれにしたのは誰なのだろうか・・・・と考えてしまうのです。

リアルに考えていなかった「地震力」「津波影響」

 1970年代の初め頃から、地震・活断層説が有力になり始めてきました。地震予知連絡会も、1974年に「地震観測地域」「特定観測地域」の設定を始めました。予知の点から考えると、空白地域が危険性が高いことになります。特定観測地域に原発が立っていることが明らかになってきたのです。福島原発のある地域が「特定観測地域」に指定されたのは1978年でした。米国で地震の多いのはカリフォルニア州ですが、地震の問題が広く議論されて、結局、計画された原発は認められなくなっていきました。事故時の損害額が巨大になることも理由であったといって良いでしょう。一方の日本では、原発は海岸に立ち並び始めていましたが、「地震の時は原発に逃げて来なさい」とまで電力会社は宣伝していたのです。

 想定地震を小さくすることで地震力を低く見積もっていたことは、伊方原発の例でも明らかですが、福島原発もそうだったに違いありません。ところが、最近になるほど地震の際の地震の揺れを示す加速度(ガル)が大きな値になっていったのでした。今までは地震計の設置数が少なかったのですが、設置数が世界的に増加し、正確な情報が得られるようになったからでした。伊方原発訴訟でも、1971年の米国サンフェルナンド地震で1000ガルを越えたことが問題になったのですが、被告である国は認めようとはしなかったのでした。

 日本でも震源近くに設置された地震計が、予想よりも大きな加速度値を示すことが明らかになるとともに、耐震設計の見直しが行われることになりました。原発の耐震設計そのものの見直しは、配管などの支持棒を増やすなどで計算上も強くすることが出来ます。しかし、津波による波高を変更することは極めて困難です。取水口・放水口などが海に面していますし、原発の建物位置を高くすることは不可能だからです。そのためもあり、海底にある活断層は出来る限り短くし、その地震の規模(マグニチュードM)を小さくして、地震力と津波影響を小さくすることにしたと私は考えています。瀬戸内海に面した伊方原発が考慮した波高が4mでしかないのに、1933年の三陸沖地震では津波波高が30mにも達したとのデータがあるにもかかわらず、福島原発は僅かに5・7mの波高しか想定していなかったそうです。今回の津波高は14mだったとのことですから、その差の大きいのに驚きます。東京電力の2008年3月の「耐震安全性に関する報告書」には、「この領域で過去に発生した最大規模の地震である1896年の明治三陸地震(M8・2)においても震害がなかったとされていることから、敷地に及ぼす影響は小さいと考えられる」(『サンデー毎日』2011年3月27日号)と書かれているそうですから、津波のことなど考えてもいなかったとしか思えません。いや、考えたくなかったのではないでしょうか。

 中越沖地震後の見直しで、海底の活断層の再評価が行われることになりました。福島沖の地震では、プレートを分断して、M=7・5、M=7・3の地震を想定することで、津波高を変更せずに済むようにしたのだと私は思っています。津波の過小評価は日本の特徴だったといって良いでしょう。私は、伊方訴訟で地震の証人になっていたこともあり、仲間で作った「原子力技術研究会」から『原子力発電における安全上の諸問題―原子力発電技術の欠陥を指摘する―』と題する4分冊の本を1976年から出版開始しました(この本は『原発の安全上欠陥』として1979年に「第三書館」から出版されています)。その「第9章」が私の書いた「原子炉の耐震設計と立地条件」でした。その中の最後の項目が「5・6 地震と津波」でした。そこで私は、 最も重要な、地震時に予想される津波に関しては、一切考慮が払われておらず、ただ「伊方町誌等や地元古老の言によっても被害を伝えるものは特にない」と書かれているのみである。耐震設計の為に想定した地震力は、津波の原因にもなるはずである。ここにも、地震に対して、リアルなものと考えず、単なる設計値を求めることしか念頭にないことがうかがわれるであろう。  と書いたのです。伊方原発が4mで、福島原発が5・7mの波高しか考えていないとすれば、津波のことを「リアルに考えていなかった」といって良いでしょう。  原発の熱出力の約3分の2は海水を温めています。つまり、原子炉を冷却するためには海水を汲み上げることが必要なのですが、それを高く上げることは経済的にとても不利です。それが、津波高を低くする理由でもあります。また、取水口・放水口ともに海面に面していますから、そこの狭い水路へやってきた津波高は急増加するはずです。津波は狭い入り江で波高を更に高くすることは良く知られているからです。そのような開口部から津波が建物の中に「逆流したのではないか」と私は推定しているのです。

東電や学者たちは津波の影響を知っていたはず

 いずれにしろ、地震での見直し作業の中でも、以前から津波の影響は考慮されていなかったようです。『サンデー毎日』3月27日号によれば、内閣府原子力委員会委員を06年まで9年間務めた木元教子氏が「地震による揺れはかなり議論したが、津波が何メートルでどのくらいの強さで到着したらどうなるかという具体的な話がでたことはありません」と明かしているからです。東京電力や日立・東芝や地震学者や原子力安全委員などは、津波の問題を知っていたはずだと私は思います。だがそれは、権力に迎合する地震学者と原子力安全委員などの協力で隠されてしまっていたのではないでしょうか。今後、それらの背景が良心的な人たちから明らかにされることを私は期待しています。

 この原稿を書いている3月23日の時点で、福島原発事故はまだ終息していません。早く安心したいとは思うのですが、残念ながら1号機の圧力容器の表面温度が400℃近くにもなっていて、安全値を超えているそうです。圧力容器の中には溶融したウラン燃料が高温になっているはずで、厚さ15pものステンレス製の圧力容器なのですが、温度差が大きくなれば割れる可能性も出てきます。ステンレスは熱伝導効果が悪いですから、内部には高温の溶融燃料が充満しているのでしょうか? 一方、TVでは専門家が相変わらず「安全です」と連呼しています。「直ちに危険ではありません」との発言も以前より増えています。私は一番心配しているのは、「個人被曝」よりも「集団被曝」の問題なのですが、それをいう専門家は少ないのです。心配なのは、大人よりも子供・幼児・胎児であり、チェルノブイリ事故での子供の甲状腺ガンの増加は、「集団被曝・線量」でしか考えることは出来ないのです。

 また、3号機のMOX燃料も心配です。「プルトニウムの漏洩だけは起こしてほしくない」と祈るような気持ちでいます。ようやく、広い範囲での野菜や牛乳や飲料水からセシウムやヨウ素の汚染が報じられてきました。「半減期が8日ですから、すぐに消えてしまいます」という専門家が、半減期30年のセシウムも放出されていることを隠して話していたのです。いくらパニックが心配だとはいっても、真実を隠すからこそパニックになるのです。私は福島原発からの放射能雲の拡散状況を、フランスやドイツやオーストリア政府系の公開ニュースを見て考えています。日本人でありながら、現在の放射能雲の状況を知ることが出来ないのです。まさに、戦前の大本営発表と同じことが起きているのです。悲しくなってしまいます。(3月23日。次回は、事故の原因や汚染の現状などを報告したいと思います)

●2007年8月31日『京都新聞』「私論公論」

中越地震は最後の警告
 原発、活断層近くに林立

電磁波環境研究所主宰 荻野晃也氏

 原発推進のために設置された日本で最初の教育機関の一つが京都大学工学部原子核工学教室(今年で五十周年を迎える)であり、そこへ私が就職したのは一九六四年だった。当初は「原発は夢のエネルギー」と思っていた私だったが、日本における原発事故の最大の誘因に「地震の危険性」を考えるようになってきた。世界中で発生する地震の15%は日本周辺であり、「日本には原発適地はない」としか思えなかったからだ。  日本と異なり地震などまったく起きないようなスウェーデンでさえ、原発からの撤退の理由の一つに「地震による大事故の可能性」を重視しているのに驚いたこともある。考えてみれば、危険性を低く評価しようとしてきたのが、日本の現状ではなかったか。
 七二年末、田中角栄・内閣総理大臣が四国電力伊方原発の建設を認可した。建設反対の周辺住民は、直ちに政府に「異議申立」を行った。「地震の原因は活断層である」「世界最大級の活断層である中央構造線に接している」などと主張し、「異議申立」が却下された翌年に「建設認可取消の行政訴訟」を提訴した。その訴訟で私は原告(住民)側の特別弁護人になり、こともあろうに三十年前の七七年には「地震問題の証人」になったのだった。
 「プレート・テクトニクス説」「地震活断層原因説」が欧米で常識になりつつあったのに、当時の日本では「活断層原因説」は主流ではなかった。すでに安全審査では「過去の地震がまったく同じ規模で同じ場所で再び発生する」と考えて地震力を想定することが行われていた。このように考えれば、「過去に地震の記録のない」ような、いわゆる「地震の空白地域」が「最も安全性が高い」ことになる。地震力を弱く想定することができて、建設費も安くなる。「日本には千三百年にも及ぶ地震記録がある」「地震は繰り返すのだからそれを想定すれば良い」というのが推進派の主張であり、その考えに機械学会・電気学会・土木学会・地震学会の人たちも賛同していたようだ。しかし「活断層原因説」に立てば、「空白地域」こそ活断層にエネルギーが蓄積し、これから地震が発生するような危険な場所になってしまう。活断層とは過去百八十万年に動いた可能性のある断層のことだからだ。  地震予知のために地震予知連絡会が「特定観測地域」などの地域指定を最初に設定したのは七四年だが、活構造(活断層)も考慮され始めた指定地域に原発が立ち並ぶことになってしまった。伊方はもちろんのこと、柏崎・若狭・島根・浜岡の原発である。
 しかし、活断層の危険性が広く知られるようになったのは、九五年の阪神大震災であった。そして活断層と原発との危険な関係をはからずも明らかにしたのが今回の中越沖地震であった。それだからこそ活断層や軟弱地盤を懸念する柏崎の住民は七二年ごろから「地震と地盤の危険性」を指摘し続けていたのだ。  地震国・日本にとって、原発はいわば日本国土全体にぶら下がる「ダモクレスの剣」である。残念ながら、これから地震の活動期を迎えるというのに、伊方原発や浜岡原発など、ことさら危険な場所に原発が建設されてしまったのだ。女川原発、能登原発、そして柏崎刈羽原発と「いわゆる想定外」の地震力がドンドン強くなって迫ってきている。
 幸いなことに柏崎刈羽原発は大事故にはならなかったが、これを「最後の警告」と考えるべきではなかろうか。「原子力船・むつ」が廃船になったように、原発路線を撤回して廃炉のスケジュールを具体化すべき時ではないか。国民全体が勇気を持って対処すべき時期に来ているように私には思えてならないのである。

(注)1978年に、福島原発周辺が「特定観測地域」に指定されました(3月23日)。

●2009年10月14日『愛媛新聞』

1号炉訴訟終結から17年
 現実になった住民主張

原告補佐人・元京都大講師 荻野晃也さん

 原発の安全性をめぐり科学論争を繰り広げた伊方1号炉訴訟。周辺住民が国を相手に原子炉設置許可の是非を問う全国初の行政訴訟だった。最高裁での住民敗訴から17年。住民が訴え続けた原発の耐震安全性に対する不安は今、現実のものになっている。原告補佐人として地震の危険性を追及してきた元京都大工学部講師の荻野晃也さん(69)の目にはどう映るのか―。(聞き手 編集委員・植木孝博)

 ―各地の原発で大きな地震が直撃している。

 原発の立地審査指針は「地震は過去と同じところで同じ大きさで起きる」という考え方だった。このため地震の記録がない空白地域は耐震強度を緩くできるため原発が立ち並んだ。伊方、柏崎、若狭湾などもみな同じ。しかし空白地域はこれから地震が起きる可能性が高く、危険な場所だ。新潟県中越沖地震はそれを証明した。準備書面や法廷での証言で主張したことは正しかった。柏崎刈羽原発の被災は最後の警告だと思う。

 ―訴訟当時から中央構造線の危険性を指摘していた。

 活断層が地震を起こすという「活断層地震説」は今では常識だが、当時の日本では欧米と違って主流ではなく、地震を起こす可能性のある活断層のチェックは全くなされなかった。伊方原発は中央構造線という世界最大の活断層が目の前にある。住民側は海底を徹底的に調べろと主張したが、国側は断層を短いものばかりに寸断してしまった。しかし実際は全部つながっている。その問題を無視したのは柏崎でも同じだった。

 ―原告、被告双方が科学者を証人に立てて論争を展開した。科学者の責任とは。

 科学者は誰に責任を持たなくてはならないか。それは国民。しかし、有名な大学の教授の多くが国側にまわった。空白地域に原発を造るのが良いのか悪いのか。本来は科学で決着がつけられるはずなのに、国側を支持する科学者ばかりのため、住民は泣く泣く裁判するしかなかった。科学者は歴史(の検証)に耐えられる主張をすべきだ。

 ―1号炉訴訟が果たした役割とは。

 訴訟は国に情報を公開させる意味もあった。提訴当時は安全審査の資料さえ出さなかったのだから、原子力の分野は公開がかなり進んだと思う。しかし、それでもまだ足りない。裁判でも黒塗りが多く、国は「(事業者の)企業秘密のため出せない」と最後の最後まで完全な公開はしなかった。もし徹底した情報公開をすれば、国民は原発推進という路線はとらないと思う。国民の利益に密接にかかわる問題は国民レベルで一つ一つ議論し、すべて公開しながら国民の判断を仰ぐべきだろう。