夏目書房編集部編『辻元!』をめぐって  松本弘也



ギョッとする本の題名

 まず本の題名である。『辻元!』にギョッとする。名指しで呼び捨てに「!」をつける。売らんかなのタイトルかも知れないが、! つきで名指しに呼び捨てにされた当人はどう思うのだろうか。そこまで考えての題かどうか。

 客観的に本の構成から見てみよう。

 執筆または談話を寄せているのは田原総一朗、大谷昭宏、橋爪大三郎、二木啓孝、浅野健一、立川談志、大月隆寛、宮崎学、テリー伊藤、俵孝太郎の十氏で、それに「辻元清美名迷語録」、「政治家たちのあやふや事件簿」、「辻元清美をめぐるキーワード集」、資料「辻元清美事件の経過」、「辻元清美略年譜」を付している。

 このなかで、筆者から見て読むに値すると思われるものは浅野健一同志社大学教授の「報道被害者としての辻元清美」と橋爪大三郎東京工業大学教授の「辻元事件の根本原因は制度的欠陥にある」の二つである。

浅野健一氏に同感

 浅野教授は、ご自身の記者31年の経験から、「なぜ、日本のメディア界は、警察、検察、裁判所と同じ視線で事件や『犯人』を見るのか」と問題をたて、人権擁護団体の牧師さんから、「日本のメディア記者は『ペンを持ったおまわりさん』だと言われて、その通りだと思った。自分のやっていることは、まさに警察の広報だった」と書かれている。

 そして、「大学に来てからは、海外の犯罪報道の実態を調査して、民主主義の国々のマスコミは権力、とりわけ軍隊、警察などむき出しの暴力装置を持つ官憲をチェックするのが仕事になっているのを知った」と。

 その上で本題に入り、「警視庁〔東京地検にあらず〕が辻元清美氏を逮捕し、東京地検が起訴したのは、辻元氏が自民党などの権力を持つ支配政党の元議員ではなく、『朝鮮有事』のデマ宣伝の下に、自衛隊を侵略戦争に駆り出そうとするネオ・ファシズムの時代において、憲法擁護を最も誠実に主張する社民党の政治家であったからだと私は断言する。不必要、不当な逮捕だった」「議員をやめてから1年4カ月もたつこの時期の逮捕は社民党つぶしを狙った政治的意図に基づく選挙妨害だ」と明確に断じている。

 以下、マスコミ批判を中心として、一部を引用させていただく。

 「『全然、説明になっていないじゃないか』『ちゃんと答えなさいよ』。辻元清美氏が02年3月26日、社民党本部で衆議院議員辞職会見をした際、・・・朝日新聞を中心とする記者たちの聞き方は下品で礼儀に反していた」「・・・新聞・放送記者たちは政権党の政治家にあれほど執拗に質問することはない。・・・」「辻元氏個人と社民党についての報道に悪意を感じた」

 「マスコミ企業幹部の中には元・新旧左翼活動家が多数いる。私がマスコミの入社試験を受けた時の試験会場は、全共闘の集会場のようであった。・・・一般学生であった私には、彼らの入社後の変りようには呆れるばかりだ。人間の思想信条が歳とともに変化することは悪いことではない。しかし、暴力さえ使う革命運動をリーダーとして展開していた人間には、なぜ思想が変ったかを説明する責任があると思う」

 「朝日新聞のデータ―ベースで辻元清美氏に関する記事は、03年7月19日朝刊から8月30日までで、66件あった。・・・他紙の同じだが、ほとんどが、警視庁からの発表と、捜査官から夜討ち朝駆け取材記者へのリークをもとに、逮捕、送検、起訴が報じられた」

 「マスコミ記者の多くが、歴史修正主義者や右派言論人に共鳴し、憲法擁護を掲げる社民党を『守旧派』とみなしている。朝日、毎日が『有事法』に賛成したのは不思議ではない。朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)による『拉致』でメディアが社民党の『責任』を激しく追及したのも同じような理由だ。社民党が『拉致』に関与したわけではない。かつて41年間も強制占領して、民族ごと『拉致に』した日本は、朝鮮半島の北半分を占める朝鮮に対して、謝罪も補償もせず、戦後は58年以上も米国に追随して敵視政策をとってきた。国内の在日朝鮮人に対する差別も続いている。そういう歴史的背景の中で、朝鮮との友好関係を築いてきた社会党、社民党を『拉致』問題で、全否定するような論調はきわめて不当である」

 引用が長くなった。もっと短くするつもりだったが、読み返してみて、 あまり短いと文章のニュアンスを含めた意が伝わらないと感じたので、少々長くなってしまった。 要は同感なのである。そのほかにも氏の指摘には共鳴する部分が多い。が、 結論部分を紹介して終ろう。

"辻元氏の再起に期待している"  

 「私は辻元氏の再起に期待している。一度の過ちで、政界を去ることはない。人間に過ちはつきものだ。過去の過ちを深く反省し、再スタートを切ってほしい。

 今回の逮捕経験を生かして、欧州各国の人権保障制度と社会民主主義の政治のあり方をしっかり勉強して、もう一度、市民派として政界に戻ってきてほしい。・・・警察とメディアによる権力乱用をなくすため、共に闘いたいと思う」

 冒頭に本の題名がいかがなものかと書いた理由もおわかりいただけたのではないかと思う。

貴重な橋爪大三郎氏の指摘

 橋爪大三郎氏の「辻元事件の根本原因は制度的欠陥にある」は、「辻元清美さんの 秘書給与の件は、贈収賄などの政治的スキャンダルとは別の次元の、単なる制度上の問題だ」として、「そもそも、現在の公設秘書の制度が、政治家の活動実態にまで合致していない。まともに政策研究をしようとすれば、すぐ10人、20人といったフタッフが必要になる・・・のに、全員を国費で雇えない。そこで名義を借りて資金をプールし、実際的に分配した、・・・だから、社民党でもほかの党でも、秘書給与を上手く運用するノウハウがアンダーグランドで蓄積されており、少なくない議員が似たようなことをやっていた」

 「現在の制度は、皆さん違反をしなさいと、違法行為を作り出しているようなもの。実際的に不正はなくとも、大勢の形式犯が生まれる。そうすると、政治の世界では、ありがちなことですが、恣意的に、誰でも好きなときに失脚させることができる。・・・彼女をつぶすには、こういうところでも突くしかなかった・・・」「辻元さんがやったことは業界のモラルに反していない。その代わり法律に反している。・・・政治を実質的に機能させるため、現場の実態に合わせた法律をつくり、その厳格な執行を求める。そうすれば、モラルと法律が一致する。・・・」

 もちろん、以上の引用も肯定的にしている。しかし、それ以上に興味を覚えたのは、以下の部分である。

 「政治には金がかかるんです。・・・その金を国民がどのように負担すればよいのか。・・・議論の本筋はここにあるはずですが、誰もそこを考えていない。ただの無関心」

 無関心の原因のひとつとして、橋爪教授はサラリーマンの所得税の源泉徴収をあげ、納税している実感をもっていないとする。一人一人が自分で確定申告をすれば意識が変ってくる、と。政党助成法もとんでもない悪法だとして、ではどうするか、具体策は、「有権者の寄付でもって、政党を運営し、政治家の活動を支えるようにすればいい、もっと寄付をすればいいんです。非現実的だと思われるかもしれない。・・・お金を出さずに世の中がよくなると期待するほうがよっぽど非現実的だ。切符を買わずに目的地まで行こうと考える、ただ乗り思想、キセルの思想ではないか」 

 その通りだと思う。有権者が目覚めなければ、政治は絶対によくならない。

 「ところで、辻元前議員は国民にどれほどの損害を与えたのか」と設問し、りそな銀行には2兆円の公的資金がつぎこまれたが、これは国民一人当たり1万5000円の負担、銀行につぎこまれた公的資金の合計額は15兆円を超え、一人当たり軽く10万円を超える。辻元議員が政策秘書給与から「騙し取った」金は1千900万円、国民一人当たり15銭弱に過ぎないと。

 そして、橋爪氏は次のように結論する。詐欺だと騒いでいるが、単なる形式犯であり 、刑法犯にはならないのではないか。・・・辻元さんが議員を辞職したのは政治責任の問題であり、政 治責任は国民の判断でストップできる。このような形式犯で政治家一人の政治生命を奪ってしまうの は、有権者にとって損失である。今度の事件でもっとも強く感じたのは、・・・辻元さんの追及に喝采を送り、今度は辻元さんを追い落としてよしとする世論、有権者の政治感覚の鈍さ、ワイドショー民主主義の無責任さですね、と。

志が低いよ田原総一朗さん

 田原総一朗の「"辻元逮捕"を招いたのは社民党の脇の甘さだ」についてもふれておきたい。私は元々田原という人を好きになれない。細川内閣ができるとき、政治改革の名で、小選挙区制の導入がはかられたが、テレ朝の田原、久米のコンビが、小選挙区制に賛成する者を「改革者」、反対・慎重論を唱える人を「守旧派」と悪意のこもったキャンペーンを散々した。国会で証人喚問されたテレ朝の椿報道局長(当時)は「細川内閣は久米、田原連立政権といわれることは非常に嬉しい」とまで自慢した。今でも、この二人を見るとムカムカする。

 ところで辻元さんの議員辞職に至る経過のなかで、田原の辻元さんへのインタビューという問題がある。福島社民党幹事長のが止めるのをふりきって、辻元さんは田原のインタビューに出た。それが裏目に出て、他のメディアから袋叩きにされることになった。そのときのことを田原はこの本のなかで次のように書いている。

 「このインタビューのあと、わたしは同業者であるマスコミから批判の集中砲火を浴びることになる。しかし、スクープをものにするのがジャーナリストの本懐である以上、ここに記したような的外れな批判は、ジェラシー以下に何者でもない」

 ここで、あのときのマスコミ他社の批判が正当かどうかを判断することに私の興味はない。それよりも、「スクープをものにするのがジャーナリストの本懐」と言っている田原の功名心に、そうかその程度かと思うのだ。その甲尿真に辻元さんが利用されたのかと思うと口惜しい思いがする。

 たとえば、前に引用した浅野教授の民主主義国のマスコミは権力をチェックするのが仕事=使命だという認識に比べて何という使命感の低さか。これが当代一流のキャスターかと思うと、日本のマスコミのレベルが情けなくなる。

「辻元はいいが社民党が悪い」のか

 テリー伊藤氏の結論はこうだ。

 「辻元清美は、ぜひ次の大阪府知事選に出馬せよ。しかも、社民党と決別し、無所属で出馬せよ。そのときは、私もかならず大阪に応援に行くことをここに約束しょう」

 テリー伊藤氏にかぎらず、辻元はいいが社民党がいけないという気持ちをお持ちの方は少なくない。この本でも、社民党に蔑みの言葉を吐いている人は多い。浅野教授のように温かい人はむしろ少ない。

 辻元さんがそういう層にまでファンを持っているのは、辻元さんの強みであることは間違いない。政党の純粋な支持者だけでは政治を動かせるわけではないのだから。

 ただし、それでは国政はどうなさるのですか、という問いは発せざるをえない。国政は無所属では動かない。

 社民党は社会党時代からの弱点を引きずっているし、社民党になってから小さくなって、弱点を克服する力も小さくなっている感はある。

 一定の政治認識をもって、自民党、民主党、共産党などを支持している人はこの際、議論の対象にしない。それはその人の選択だし、文句をつける筋合いでもない。

 弱点を持たない政党はないのだから、政党をどう育てるか、という観点がないと日本の政治はよくならないのではないか。特に自分の支持する政党を決めて、である。政党をよくする努力もしないで、政党をバカにして、いっぱしの政治意識が高いような顔をしている人を見ると、それでいいのですかと言いたくなる。それだけに橋爪教授の政党にカンパすべきだという意見が貴重になる。

 既存の政党は信用できないというのなら新しい政党をつくる気概がなければならない。しかし、60年安保の前衛不在論以来、新しい政党をつくる試みは多かったが、ものになった例は聞かない。一人一党のような自己満足の党はいざ知らず、世間から存在を認められるような政党を新たにつくろうとすれば気が遠くなるようなエネルギーが要る。しかも多くの人の一致が必要になる。

 社民党に限らず政党不信がつくられたのは、もちろん政党の側にも責任があるが、無責任に政党を批判だけしてきたマスコミの責任も大きいと思う。

 憲法改悪が政治日程にのぼろうとするいま、社民党を根気よく育てることはますます必要になっていると私は思う。

 いささか『辻元!』から離れたので、本に戻ると、立川談志のロングインタビューは内容の割りにロングすぎる。一頁ですむ話を延々とやっている。それでもこのインタビューは長々と読んで、時間がもったいなかったという程度ですむが、大月隆寛の『正論』に載ったという文章は読後に薄汚い手でザラッと肌をさわられたような不快感が残る。イヤーな感じだ。