「進歩と改革」No.808号    --2019年4月号--


■主張 3・1朝鮮独立運動100周年が日本に問いかけるもの

 「天皇在位30年・天皇代替わり」の年に、沖縄・朝鮮から日本の近現代を問う>
 

 政府主催の「天皇陛下在位30年記念式典」が開催された2月24日(日)は、沖縄の「辺野古米軍基地建設の埋立ての賛否を問う県民投票」の日であった。投票率52・48%、辺野古埋め立てに「反対」が71・74%(43万4273票)で、昨年9月の沖縄県知事選で勝利した玉城デニー氏への約39万票を上回る圧倒的な民意が示された。この県民投票の結果は、戦後日本政府の基地負担押し付けのみか、明治政府以来の沖縄への支配と差別の構造を根本において問うものとなっている。同じ日、沖縄県民投票に連帯しつつ、「3・1朝鮮独立運動100周年東京集会」も開催され、3月1日当日には新宿東口アルタ前でリレートーク&キャンドル行動も展開された。天皇代替わりの年に、沖縄と朝鮮から日本の近現代史が鋭く問われることとなった。  

 朝鮮民族解放史の画期をなす3・1運動


 3・1独立運動については、姜在彦著『近代における日本と朝鮮―朝鮮問題入門』(すくらむ文庫、1978年刊)から案内したい。次のようにある。

 植民地の再分割をねらう第1次世界大戦のさなかで、1917年11月7日にロシア十月革命が勝利し、世界陸地面積の6分の1の地域に、世界史上最初の社会主義国が生れた。ロシア10月革命につづいてヨーロッパ諸国でも革命運動が相つぎ、中東およびアジアにおいても民族解放のたたかいがつづいた。1919年における朝鮮の3・1運動、中国の5・4運動は、このような世界的潮流を反映するものであった。

 3・1運動の先駆的役割をはたしたのは、在日朝鮮人留学生であった。すなわち1919年2月8日、東京の朝鮮YMCA会館にあつまった留学生600名は、崔八繧はじめとする代表11名の署名による独立宣言を発表した。集会は解散させられ、また逮捕されたりしたが、すでに国内や上海に派遣された学生たちは、運動の拡大のために活動した。

 当時国内では、高宗(1907年に日本の強制によって退位させられた国王)が1月21日に急死し、日本による「毒殺説」がひろまっていた。3月3日の国葬日を前にして反日感情はたかまるばかりであった。秘密裡に「民族自決」のための独立示威計画がすすめられていた。

 3月1日、ソウルのパゴダ(塔洞)公園には市内の学生および市民が集まり、独立宣言書を読み上げ、「大韓独立万才!」を叫びながら示威運動をはじめた。独立宣言書には「民族代表」として天道教、キリスト教、仏教代表の33名が署名した。しかし、泰華館という料理店にあつまったかれらのうち29名は、内輪で宣言書を朗読し、祝杯をあげてのち、日本官憲に逮捕された。ソウルで示威行動がおこなわれた同じ日、事前計画によって平壌、元山、安州、鎮南浦、遂安、宣川などでも、反日独立デモがおこなわれた。運動は日がたつにつれて、しだいに地方都市から農村にまで波及し、朝鮮全域を包み込んだ。平和的示威からはじまった運動は、日本本土から軍隊の増強をうけた軍警によって、各地で流血の弾圧をうけた。……3・1運動はほぼ1年つづいたが、もっともはげしい激突があったのは3月1日から5月末までの3カ月間であった。その間218の市および郡のうち、217の市と郡で1491件の示威と蜂起があり、殺された朝鮮人数7509名、負傷者数1万5961名、検挙された者4万6948名となっている。

 姜在彦さんは、「3・1運動は、朝鮮民族解放運動史のなかで一つの画期点をなす」とする。東京集会に韓国から招かれた4・27時代研究院の孫政睦・国際分科長は、「3・1運動は、民族の解放と国民主権の実現が不可分であることを示した民族自主権を守る歴史の決定的分岐点になった」と発言した。それから今年で100年である。  

 近代における日朝関係史を学ばねばならない


 近代における日本と朝鮮を考えるとき、当然、3・1運動に前後する歴史がある。明治政府による朝鮮に対する初めての武力攻撃は1875年(明治8)9月に行われた江華島事件である。「朝鮮本土と江華島とのせまい水路に侵入した日本軍艦雲揚号は、朝鮮砲台からの砲撃をうけて反撃し、ついには永宗鎮に上陸して朝鮮兵を殺傷し、大小の銃砲を分捕って引き上げた。これが世にいう江華島事件である。日本の外務卿寺島宗則は駐日外国公使たちに、雲揚号が飲料水をもとめて江華島に接近したところ、朝鮮側から砲撃をうけて応戦したと説明している。一部の学者たちは、この事件の原因についてそのように書く向きもあるが、じつはこの事件は計画的な挑発であった」と姜在彦さんは指摘するが、それを裏付けて2006年発刊の井上勝生著『シリーズ日本近現代史@幕末・維新』(岩波新書)には、大意、次のようにある。

 「これまでは雲揚号が飲料水を採取しようとして江華島砲台から砲撃を受けて応戦した」と報告されていたが、ところが最近、これより以前の報告書が発見され、「飲み水を求めようとして砲撃された」のはウソで、報告書は改竄されていることが分かった。つまり、雲揚号は朝鮮陣営にはまったく無断で朝鮮領海に押し入り、砲台前を通り過ぎた時に砲撃され、交戦となった。この雲揚号の行動は「国際法違反であった」。「事件には外務省も関与していたのである。狙いは明確であった。欧米が後発国(半未開国)に結んだ不平等条約を朝鮮と結び、朝鮮を開国することである」。この事件の真相は、中塚明著『日本人の明治観をただす』(高文研)にも詳しい。読んでほしい。

 事件後に結ばれた江華島条約(日朝修好条規)は一方的な不平等条約で、この条約をテコに日本は朝鮮にその勢力を拡大し、韓国併合に至る。しかし、我われはそうした歴史、例えば「近代日朝関係の起点」となるこの江華島事件の真実一つ学びえていない。雲揚号艦長である井上良馨の生誕地の碑が鹿児島市にある。その生涯を顕彰する説明板には、「明治8年には『雲揚』艦長として江華島事件に遭遇し勝利を得ました」と記されている。江華島事件に遭遇し勝利”とは歴史の真実に背理したものだ。「私たちは、日本や朝鮮半島やアジアの歴史についてあまり学んでこなかった」「歴史に無頓着であれば、その上に歴史修正主義的言説が容易に刷り込まれてしまう」――東京集会で強調されたことである。心したい。   

 「旅する天皇」と実現しなかった韓国訪問


 天皇代替わりを前にした平成回顧の雰囲気のなかで発刊された竹内正浩著『旅する天皇―平成30年間の旅の記録と秘話」(小学館)には、平成天皇の旅(ほぼ地球15周半の移動)が特徴づけられ、その一つとして過去と向き合う「和解と親善の旅」が挙げられている。そして皇太子時代81回、天皇即位後47回の計128回の外国訪問が数えられているが、そこにはすぐ隣りの韓国の名前はない。韓国を訪問しえていないことの指摘もこの本にはない。

 その韓国をめぐる平成天皇自身の言葉としては、日韓ワールドカップ前年の2001年(平成13)の誕生日記者会見での「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」という発言がある。1998年、金大中韓国大統領訪日時の晩餐会での天皇挨拶もある。最近では2017年9月、高句麗からの王族を祀る埼玉県日高市の高麗神社を訪ね参拝し、百済や高句麗について尋ねている。その韓国とのゆかりを感じる平成天皇が韓国を訪問できずに代を替わるということは、平成の時代にも過去の朝鮮植民地支配という歴史の清算・和解ができなかったことを物語っている。  

 「村山談話、菅総理談話に基づく協議を」と有識者が声明


 この間、日本政府は高校無償化から朝鮮学校を排除してきた。最近では韓国元徴用工判決、韓国海軍と自衛隊の低空威嚇飛行・レーダー照射問題、「和解・いやし財団」解散問題などで、安倍政権は対話の道から遠ざかり、反韓国感情を煽ってきた。また文喜相・韓国国会議長が、日本軍慰安婦問題について、日本を代表する首相あるいは近く退位する天皇が謝罪することが望ましいと発言したことに対し、安倍政権は強硬に撤回と謝罪を求めた。この発言の本質は、やはり日本の過去清算への責任を問うものであろう。何しろ、日帝・近代天皇制による韓国併合は、民族の尊厳を踏みにじる大罪であり、多大な犠牲をもたらした。そのことへの自覚がまず必要だ。

 2月6日、「村山談話、菅総理談話に基づき、植民地支配を反省謝罪することこそ日韓・日朝関係を続け、発展させる鍵である」との声明が有識者から出された。植民地支配と侵略への反省とお詫びの気持ちを表明したのが村山談話(1995年)である。そして韓国併合100年、植民地支配の終焉から55年を経た時点において、新たな地平での歴史認識を示したのが菅総理談話(2010年)である。声明は、「日本と韓国、日本と朝鮮のあいだにのこる問題は、すべて村山談話、菅談話に基づいて、あらたな心で誠実に解決していくべき」としている。過去の植民地支配への反省と謝罪、東北アジアの平和への共同、日朝国交正常化にむけた誠実な対話に賛同したい。