「進歩と改革」No.715号    --2011年7月号--


■主張 脱原発社会へ社会民主主義のエコロジー的革新を


  
被災者・被災地の救援と人間の復興へ

 東日本大震災・福島第一原発事故より、2カ月半が経過した。5月30日現在、死者は1万5270人、行方不明は8499人に及んでいる。避難者は10万2273人に至っている。報道からは、被災者の直面する困難が伝えられてくる。「津波は自宅の庭まで迫ったけど、何とか無事でした。水道が通らないのがつらい。長男や長女のことを考えると、このまま南三陸町にいるのが良いのか悪いのか。『生きていた良かった』という震災直後の感情が、将来の不安に変わった」(『朝日新聞』5月26日、いま伝えたい・被災者の声)。

 「生きていて良かった」から「将来の不安」へ―時間が経過するとともに、生活・住宅・仕事・事業などの再建、将来への不安が高まっている。政府の緊急災害対策本部は、8月中旬までに希望者全員の仮設住宅入居を目指すとし、また8月末までの住宅周辺のがれきの撤去を行うというが、復旧作業は大きく立ち遅れている。いま梅雨と台風の季節を迎え、そして夏はもうすぐである。原発事故の収束とともに、すべての被災者への手厚い支援、一日も早い復旧・復興が求められるが、そのど真ん中に置かれるべきは生活を営む人間と人間の絆の復興であろう。政治の責任は極めて重いと言わなくてはならない。


福島原発事故はレベル7、そしてメルトダウン

 福島第一原発事故では、原子力安全・保安院が、4月11日になって、事故レベルが最悪の7であることを認めた。事故から1カ月も経った時点での発表であり、放射能が拡散したいたこの間、何をしていたのか、意図的な情報隠蔽ではなかったか。また、東電は事故から2カ月後の5月12日に至って、やっと1号炉のメルトダウン(炉心溶融)を認めた。2号炉、3号炉もメルトダウンであった。「言ってみれば溶けた燃料はあんパンのような形状で格納容器の底に落ちていて、真ん中、つまり『あん』の部分は溶けたままだけど、外側はクラスト(表皮)状に固まって冷えている」「溶けたウランが格納容器も突き破り、地面に落ちてしまうかもしれない」(小出裕章・京都大学原子炉実験所助教、『週刊現代』6月4日号)という危険極まりない状態にある。

 5月23日の参院行政監視委員会は、小出氏や、芝浦工大非常勤講師の後藤政志氏(元東芝の原子炉格納容器設計技術者)、90年代後半から「原発震災」を警鐘してきた神戸大名誉教授の石橋克彦氏、そしてソフトバンク社長の孫正義氏の4人を参考人として招いて意見を聞いた。これは社会的にも大きな注目を浴び、NHKにも放映するよう多くの要請があったという。その日の様子・発言は、参議院のホームページやYOUTUBE動画で見、聴くことができる。紙幅の関係で紹介できないのは残念だが、『社会新報』(6月1日)にも掲載されており、参照いただきたい。

 放射能被曝の危険性、原発ストップを指摘するこれら参考人の声は、政権・国会に届いたのであろうか。実は、石橋氏は、2005年2月、第162回国会の衆院予算委員会公聴会でも公述し、「原発震災」を招く危険性を訴えている。その時の予算委員長は、自民党でも原発推進最強硬派の甘利明氏であった。甘利氏に反省はなかったようで、甘利氏はいま自民党の原発推進組織「エネルギー政策合同会議」委員長である。菅首相への不信任をめぐる国会の動きも報じられているが、原発推進の大連立など願い下げである。


社会民主主義が問われている

 菅首相は、浜岡原発の中止に踏み切った。一応、リベラルな対処と言えるが、しかし「浜岡原発以外は安全だ」としている。こうした現状を見るとき、日本社会を脱原発へと決定付ける運動と政策と力とを高めなければならないとの思いを強くする。社民党・社会民主主義が問われていると言ってよい。

 『朝日新聞』(5月21日)は、「原発への不安、政治はどう向き合うべきか」として、宇野重規・東大教授と飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長との対談を載せている。その中で、宇野氏は「高木(仁三郎)さんらの努力にもかかわらず、日本で原発に反対した政治勢力は、政策決定に影響を与えられなかった。社会党にしても90年代に政権入りしたものの、現実主義の名のもとに反原発を取り下げた」とし、飯田氏は「日本では政治家も官僚も知識人も・・・・原則に照らして現実を変えていこうとするたくらみも弱い。社会党は反原発を掲げてはいましたが、原則レベルで理解していないから、現実をのみ込む際、原則に近づける戦略の出しようがなかったんだろう」としている。関係者に意見はあろうが、飯田氏の「反原発を掲げてはいても、原則レベルで理解していない」との指摘は、社会党から社民党へと経過した現在も検討に値する指摘ではないだろうか。要は、原発の危険性の指摘だけでなく、脱原発社会を実現する思想であり、より具体的には科学技術や経済の成長をどう理解し、新しい政策をつくる根底としての理念を確立することの重要性だと理解する。

 この点で、世界の社会民主主義の先進を画すのは、西ドイツ社民党(当時)の「ベルリン綱領」(1989年)であろう。「ベルリン綱領」には、「エコロジー的に非合理的なものは経済的にも非合理的である。エコロジーは経済の付属物ではない。エコロジーは社会的に責任ある行為の基盤になるであろう。それ故、エコロジー的に不可欠なものが、企業の経済行為の原則にならなければならない」としている。「ベルリン綱領」を策定する過程での論議で、「量的な経済成長が社会の質的改善とより多くの自由・公正・連帯をもたらすという、これまでの広く行きわたっていた信仰に対する疑問がいっそう強まっていった」「伝統的な進歩観に対する批判的な再検討の決定的な契機となったのは、抑制のきかないよりいっそうの経済成長、すなわち生産力の発展が、破壊力の増大と結びついているという洞察であった」「科学技術と経済の進歩に対する批判的な分析と生産力の拡充が持っている二重の性格の認識から、民主的社会主義の新しい課題が明らかになった。すなわち『エコロジー的革新』『われわれの産業社会のエコロジー的改造』が『生き残りをかけた問題となって(いる)のである』」(H・ハイマン『民主的社会主義と社会民主主義』)とされた。以降、20余年が経過しているが、福島第1原発事故に直面した日本と社会民主主義にとって、汲み取るべき思想・理念は今なお深く大きいのではないか。

 日本における脱原発社会にとって社会党の歴史的経験は貴重であり、社民党の存在は不可欠である。それをさらに輝かすための努力が求められている「社民党宣言」(2006年)にも、「脱原発を積極的に推進」とされているが、「産業社会のエコロジー的改造」やそれを担う「社会民主主義のエコロジー的革新」への認識は十分とは言い難い。新たな時代の転換点に立ち、脱原発社会を築く思想・理念を今一度検証し、運動・政策へと繋ぎたい。