進歩と改革【2000年12月号】掲載


和解・統一に向かう朝鮮半島情勢(上) ―新たな国際関係樹立への展望



歴史の歯車が軋んだ 

 朝鮮半島をめぐる今年6月以降の動きには、大げさに言うと、歴史の歯車が動く時の軋みの音が聞こえるという一瞬がありました。また、シドニー・オリンピックでは、南北朝鮮の選手団が、英語名の「コリア」という名で、統一旗の下、手と手を結び合わせて行進する光景を見ました。確か30数年前に、同じオーストラリアのメルボルン・オリンピックで、東西ドイツの選手たちが統一旗を掲げて共同行進をしたことがあるそうです。しかし、その後、ドイツがすぐに統一できたかというと、そうではありません。当時は冷戦の最中でしたから、1990年代に入るまで、ベルリンの壁は崩れることはありませんでした。その点で、今回のシドニーにおける南北朝鮮の統一行進は、ドイツの場合と少し違います。それは、6月13日から15日にかけて、いわゆる南北朝鮮首脳会談が開かれた結果として、3カ月後に統一行進が実現したという意味で、着実に前に向かっているように思えるからです。

 私は、6月から始まった朝鮮半島の事態は、今から11年前の1989年12月、米ソ間で冷戦終結を謳ったマルタ島での米ソ首脳宣言以来の、アジアにおける冷戦終結宣言ではないかと考えています。第二次世界大戦後、分裂し分断された民族が統一に向かった例として、ドイツとベトナムと朝鮮の三つが語られますが、今日は、そのなかの朝鮮が、私たちの最も近い隣国であるということを日本人がどれほど正確に把握しているのか、また東アジアで朝鮮と共生していくべき日本が、今日の事態の歴史的意味をどこまで理解しているのかをテーマに取り上げたいと思います。

 まず、「和解・統一に向かう朝鮮半島情勢」とのタイトルですが、この和解とは、これまでの憎しみを捨て、お互いに相手への不信感を捨てて、信頼を醸成していくことを言います。しかし、和解から統一へという点では・で打つほどの短い期間ではなく、結構、時間を取るのではないかということは考えておかねばなりません。和解から即、統一に向かうのは理想ですが、現実はそう甘くありません。しかし、それを短くすることに、私たちがどれだけ手を貸してあげられるのか。もちろん、統一は朝鮮民族の自主的な行動ですから、私たちがおせっかいしたり干渉することは全く不要ですが、日本がより主体的に、朝鮮半島の分断を望むのか、統一を心から願って日本の再生に結びつけるかは、これは私たち自身の問題です。

 サブ・タイトルは、「新たな国際関係樹立への展望」としましたが、これは朝鮮半島の南と北がそれぞれ新たな国際関係を築き上げていく見通しと捉えるだけでなく、私たち日本が変わり行く朝鮮半島の状況を見て、どのように新たな国際関係を築くかという二つの意味を込めました。つまり、日本再生への道に繋げるかどうかという課題に関わる問題です。朝鮮半島の分断と統一を他人事として捉える限りは、このような発想は出てきません。朝鮮がどれほど私たちに密接な相手であり、21世紀に生きていく上で欠くべからざるパートナーであるかという認識がなければ、朝鮮半島の和解とか統一をいくら論じても意味がないわけです。大学には、「地域研究」といって、他人事のように他の地域の研究をする学問分野がありますが、こと朝鮮半島における地域研究は、それそのものが日本の研究に直結します。そのような問題意識をもって、6月15日の時点での南北首脳会談の意義・成果を捉えつつ、現在から将来の日本に結びつけての話をしてみたいと思います。

南北首脳会談の歴史的意義

 南北首脳会談については、すでに新聞・テレビ、二義的情報による雑誌を含めると相当たくさんの情報が、皆さんの中にも入っていると思います。ある意味では、洪水のように流れ込んだ情報の中には、例えば金正日総書記のパフォーマンスとでも言いますか、あの言動がそれまでの認識と大きな落差があったということで、国民は驚いたということもあるでしょう。しかし、そのことが今回の南北首脳会談の劇的な意義を、逆な意味で歪めているかも知れません。歴史が、パーソナリティー、つまり個人的な政治家や指導者によって動かされるのは事実であり、パフォーマンスも大事ですが、同時に、その裏にある民族の運命を誰が決定していくのかという問題も考えていかなくてはなりません。今後、さらに分析し研究していきたいと思っています。

 さて、南北首脳会談をめぐる様々な情報のなかで、比較的に伝わっていないのが、金大中大統領がどのように決断し、どのような考えを持って今の施政を行っているかという点です。これも、細切れには多数報道されているのですが、ここでは金大中大統領の直接の言葉を引いて、分析してみたいと思います。金大中大統領は、ピョンヤンで金正日総書記と握手、抱擁し、がっちりと和解を確認してソウルに帰ってきました。金大中大統領がアジアの指導者としてどれだけ抜きん出た存在であるかは、朴正煕時代、この人が東京で拉致され、暗殺されかけ、ソウルで監禁、そして死刑判決を二度も受ける、ついに出国をするという運命のなかで語った多くの重要な言葉によって、私自身良く知っているのですが、その金大統領がソウルに帰った際に読み上げた「声明」が、なかなかしっかりとしたものでした。この「声明」を見てみましょう。私、つまり金大中大統領は、金正日総書記に次のように言ったといっています。

 「朝鮮王朝の衰退期に朝鮮人民が手を合わせて近代化を急ぐべきだったのに、その時期に国内が分裂しており、近代化に背を向けてしまった。その結果、国を失って、15年間、日本の植民地になった。1945年からは、国家が分断され、さらに朝鮮戦争後の有刺鉄線で隔てられ、南北が歪みあうという屈辱を味わった。このようにして、神様は我ら子孫に百年間の罰を与えられたのだろう。人類は今、知識と情報化の時代という革命的変化の時代に直面している。世界がお互いに国境の壁を取り払い、経済競争に突入している今、一つの民族が分断され、貴重なエネルギーを国内の対決に浪費していれば、どうやって今後生きのびて行けるであろうか。例え、今すぐ国家の統一が成し遂げられなくても、自由に往来し、共に経済を発展させ、スポーツや文化の交流を発展さすことができる。21世紀という知の時代を迎えるにあたって、わが朝鮮民族の教育を重視する伝統と文化的創造性は、最も有利な財産となるのではないか。もはや、米・露・中・日という四大強国が、我われを支配する時代は終わった。時代は、その反対であって、この四大強国は我われの素晴らしいマーケットである。我われは優位な地位に立ったのだから、この時にあたって、南北が協力せずに争っていたら、我われの運命はどうなるであろうか」。

 また、金大中大統領は、「だから、南を赤化統一しようとか、あるいは北を吸収・併合しようとかいう考えは捨てるべきだ」と強調し、「何とかして朝鮮半島に世界第一級の国家を作ろうではないか」、さらに「この際、お互い相手に言いたいことを言いつぶそうではないか」と金正日総書記に提案したと言っています。そして、このことが、その後、金正日総書記がさらに腹を割って話をしていくきっかけになったということです。つまり、「自分は核兵器やミサイルの問題も金正日総書記にざっくばらんに言ったところ、金正日総書記は、在韓米軍の問題から国家保安法の問題に至るまで質問をぶつけてきた。この対話は、極めて実りある内容であった」としています。この様子からも、二人の金氏が、10数歳の年齢差を超えて、本当に朝鮮民族の過去から現在、将来に至るまでを話し合ったことが見えてきます。また、金大中大統領は、「南北共同宣言は、単に口先で世界に宣言しただけで、実行しなければ信頼を失う。だから四項目にわたって具体的に述べたのだ。統一への道筋をきっちりと具体的に世界に示したのだ」とも言っています。これは、私たちが予想した以上に、共同宣言が具体的であったということに繋がるわけです。

金大中大統領の勇気と決心

 さて、こうした南北首脳会談をもたらしたものが、この二人の金氏のパーソナリティーであったということは否定できません。金大中大統領が、「神の見えざる手が民族や国家の運命を導く」と指摘するように、やや運命論的に言いますと、20世紀の最後の年に二人の出会いが実現したということです。しかし、これは偶然でもなんでもなく、20世紀中に起きたことを何とか今世紀中に解決したいという強い意志が、首脳会談の実現を導きました。この点に、金大中氏が過去の大統領、それは反共主義で名高い李承晩大統領から始まって、朴正煕・全斗煥・盧泰愚という三代の軍人出身の大統領はもとより、プサン出身のやはり反共色の強かった金泳三大統領に比べても、その勇気・決断力がいかに強かったかが分かるわけです。金大中氏が、時代がそうなったから出てきた大統領というのでは決してなく、逆に時代を開いた政治家であろうという意味において、74、5歳になってついに大統領に登りつめたというのは、やはり朝鮮民族に神の手が動いたのではないかと考えられます。

 金大中氏が鋭敏な国際感覚を持ち、世界的に知られた政治家であることは言うまでもありません。徹底した民主化運動の指導者であり、過去の政権から弾圧され続けた被害者という意味はもちろんありますが、この金大中氏自身は、南北の相克を越えた統一というものを一番早くから打ち出していた、南における唯一に近い政治家でした。私が70年代にソウルで特派員をしていた頃にも、金大中という人はピョンヤンに立つ人ではないかということを、薄々感じていました。そういう意味で、私は、金大中氏がピョンヤンに立ったことが予想外とか意表を突かれたという思いはせず、自然の流れと捉えています。

 ただ、金大中大統領の相手が金正日総書記であったかどうかについては、故金日成主席の時代が長かったということもあり、むしろ金日成と金大中という人が出会う可能性を常々考えていました。金日成主席が1994年に亡くなられ、私もその3年前、単独で主席にお会いしたことがありますが、この主席がやはり朝鮮の統一を心から望んでいた人であり、日本とアメリカという大国の力を押しのけて自分たちが統一するということの意味を常に説いていた人でしたから、年齢的にも近い金日成氏と金大中氏の出会いはあり得ることだと考えていたわけです。

金正日総書記の決断と外交手腕

 今回の金正日総書記は58歳。日本で誹謗中傷される際に言われる「若造」などという歳ではなく、還暦まであと2年という人です。金正日総書記は、今から20年前の1980年、朝鮮労働党第6回大会で公式に金主席の後継者として、内外にお披露目され登場しました。すでに70年代から朝鮮労働党の様々な部署で活動し、トレーニングを積んで登場しているわけで、いわゆる帝王学というか、国家を指導するという気持ちにおいて、あるいはその資質と努力においては欠けるところのない人であろうかと思います。

 私たちが驚かされたのは、その外交手腕です。朝鮮民主主義人民共和国は社会主義の国ですから、内政については分かりにくいことが多々あります。しかし、こと外交に関しては、極めて絶妙な力を持っており、これは民族内部の南に対する問題とは切り離して、日本やアメリカ・ロシア・中国の国々に対しても「手玉」に取るがごとく外交を展開しています。その中心に金正日総書記がいることが、今回、ますますはっきりしました。それは、彼が独裁者、唯一指導者として君臨していると受け止めるよりは、私は共和国は集団指導型の国家だと見ています。そのなかに、カリスマ性を持つ指導者を置くことによって、アジアで最も境遇の悪い状況の中で、外交手腕によって生きてきた国が共和国かなと思います。

 つまり、一発の鉄砲も撃つことなく、鉄砲を撃つかのごとく見せかけて、実は口から唾が飛び出しているだけという状況の中から富を得るのが外交の真髄ですが、この点では、共和国はミサイル問題であろうが核問題であろうが、あるいは水害支援であろうが、その全てを外交の力によって自分の側の物にしています。「禍を転じて福となす」とでも言いますか、転んでもただでは起きない、転んで握った土すら金に代えるといった外交手腕は、率直に言ってすごいなと思います。従って、コメが不足すれば、このコメ不足が外交の大きな道具になるわけで、これを資本主義の拝金主義者から理解するとすれば、「そんなことがあるのか」という位、発想の転換が必要です。そこから、コメのない方が「威張って」いて、コメのある日本の方が困って、コメの出し方をめぐって困惑している状態さえ生まれるわけです。

 しかし、これも外交だということになりますと、そう軽々に、彼らが遅れた国だなどと言うことはできません。むしろ、朝鮮を見ていると、私たち日本が経済大国だとか、統一された国家だとか、政治的に素晴らしく成熟した国家だという見方自体、ものの見事に音を立てて崩れてしまいます。私たちの心の中にある先入観を完全に取り除かない限り、朝鮮民族の将来は見えてこないと思うのです。

 それにしても、あの出会いの中で、日本などで取りざたされ誹謗中傷されていた金正日総書記の姿とは、まるきり反対なものが映し出されました。これは日本人だけではなく、韓国の民衆にとっても驚きであったわけです。相手が鬼でもなければ蛇でもない、自分たちと血の繋がる同族であるということへの確信が、より一層和解への気持ちを強めたのは間違いありません。その意味において、政治家や国家指導者のパフォーマンスというものは極めて大事であると思います。

 同時に、私は日本からやや傍観者風に見ていて、二人の金氏という日本にはいないリーダーの存在にうらやましい思いさえしました。それは、二人の言葉が正確であり、日本のようにあらぬ暴言を口走り、後であれは間違いであったなどという失言を繰り返す政治家では決してないということです。十分に考えに考え抜き、しかも発言の国際的反応まで知り尽くしている緻密な感覚に驚きました。その意味では、朝鮮民族が決して恵まれた状況にない中で、「家貧しくして孝子出ず」とでも言いますか、金大中氏や金正日氏というような指導者を生み出していくのは、やはり民族の活力であろうかと思うのです。そういう認識で朝鮮半島を見ていきますと、彼らが日本より政治的に、あるいは民族の成熟度において劣っているなどということは、到底言えることではありません。むしろ、私たちが謙虚に、南北首脳会談のやり方の中から、国家の運命や民族の行く末を切り開く知恵を教えてもらう気持ちが必要かなと思います。

「日韓併合」以来、90年ぶりの民族会合への努力

 そこで、日本のマスコミは、二人の金氏の出会いを、1945年以来の55年ぶりの民族会合だと言っています。しかし、私は、これは金大中大統領の言葉を引くまでもなく、まさに朝鮮半島が李氏朝鮮の終わり、日本という南の大国に対抗できなかったが故に招いた1910年の「日韓併合」以来、初めて朝鮮民族がその力を取り戻した瞬間ではないかと考えています。つまり、1910年の「日韓併合」から90年ぶりに、朝鮮民族が自らの運命を自らの指導者によって話し合ったという最初の出来事です。

 この間、足かけ36年の日本統治、その後のアメリカ支配の中で、朝鮮民族は自立性を奪われた国家として、半分国家としての屈辱を味わってきました。その現実に対し、分断されておらず統一を保っている日本の私たちがどのように共感を寄せても、やはり臨場感を持って朝鮮民族の運命を理解することは困難ですが、しかし、1910年の「日韓併合」以来、90年ぶりに彼らが集まって、お互いの統一について話し合ったということだけでも理解が至ると、私たちと朝鮮との距離はぐんと近づいていくのではないかと思います。

 南北朝鮮の粘り強い努力があって、首脳会談が実現しましたが、これは偶然でも何でもありません。その一つが、今年3月の「ベルリン宣言」です。「ベルリン宣言」は、金大中大統領がブランデンブルク門の前で、「ドイツも統一した。しかし我われは依然として南北の和解に至っていない」と嘆き、「南北首脳会談によって和解したい」と痛切に述べた、内外に向けた宣言ですが、これに金正日総書記が直ちに応えたというのが一つのシナリオです。金大中氏の「ベルリン宣言」に十分に呼応するだけの、いわば打てば響く側があったわけで、金正日総書記は直ちに中国を訪問する計画を立て、これは5月に実現しました。その時、森首相はソウルにおり、野中自民党幹事長も他の与党幹事長を引き連れて北京にいたわけですが、そこに金正日総書記が来ているのを知らないという、無様な、かつイロハの情報さえ収集できない日本国家の姿を晒しました。

 いずれにしても、金正日総書記は3日間北京に滞在して、中国のあらゆる指導者と話し合い、南北首脳会談に臨みました。これは当たり前じゃないかと考える方も多いと思いますが、中朝関係はその間、決して良くはなかったのです。そして、次にロシアのプーチン大統領の訪朝を取り付けますが、この取り付けも首脳会談の前でした。プーチン大統領も、断ることのできない重要なものと位置付けて、7月の沖縄サミットの直前、旧ソ連以来初のロシア国家指導者としてピョンヤンを訪れるという前例のない行為を行ったわけです。これは、金正日総書記の中国、ロシアに対する完全な外交関係の回復であり、同時に南北首脳会談への万全の備えでした。このことによって、南北首脳会談の中身がよりしっかりとしたものになったのです。