【進歩と改革2022年6月号】掲載


不戦条約と日本国憲法  

 はじめに

 憲法9条は、戦争放棄を謳った不戦条約としばしば結びつけて説明される。右翼がいわゆる押しつけ憲法論を主張してきたことから、これに対抗するために、憲法の平和主義が普遍的な人類史の中に位置づけられると強調されてきたのである。

 また日本国憲法と日米安保条約を対比し、日本政府を対米追従等と批判する動きも根強い。安保条約が事実上の改憲を進める法的根拠となってきたからこそ、これを憲法と対立するものとして位置づけ、さらにこれを従属などの言葉で呼ぶことは、改憲派が重視するナショナリズムを刺激する面もあった。

 このような議論にも意義があったかもしれない。しかしこの結果、改憲派が設定するもう一つの論点、すなわち護憲派の議論は理想論であり、現実の世界には通用しない、実際に侵略を受けた場合はどうするのかという問題に十分に答えられなくなったことも否定できない。結果的に、侵略されてもなお無抵抗なのかなどの、神学論争的状況を招いてきた。

 しかし憲法を取り巻く環境が変化した。北朝鮮や中国の脅威が喧伝され、実際に核実験、ミサイル実験、領土を巡る軋轢などが度々報じられる中で、改憲を容認する世論が高まり、改憲を主張する野党も増加し、国会でも改憲派がほぼ恒常的に2/3を超えるようになった。そしてロシアのウクライナ侵攻を受けて、敵基地攻撃能力が具体的に提案される状況に至っている。

 このような中で、押しつけ憲法論に対抗するための理屈は逆効果ではないか。さらには、護憲派自身が、日本国憲法が米国によって蹂躙されてきたなどのナショナリズム的な論点にはまり込んで、自らの問い直しが不十分になりがちである。

 また、不戦条約の命脈を絶つ決定的な役割を担ったのが日本軍国主義だったこともあまり議論されない。ましてや平和条約を主導した米国内の平和主義の動きを根底から覆し、多くの平和主義者を戦争に躊躇しない勢力に変えたのが日本軍国主義であることへの言及はさらに希である。

 筆者がこの問題を本誌で折に触れて取り上げてきた背景にはこのような問題意識があった。今回はこれを改めて整理する。

 1 平和主義の20年代

 1920年代の米国は黄金の時代だった。第1次世界大戦が終わって平和が訪れ、古い秩序が壊れると同時に新たな技術に裏付けされた新しい文化が花開き、機械化と大量生産が定着した上に復興需要が重なり、経済も右肩上がりの成長を続けた。

 この年に大統領に就いたのは共和党のハーディングで、以降、クーリッジ、フーヴァーと、共和党の時代が続く。彼らは国際社会の制度化に取り組み、国際的な司法制度を樹立し法の支配を確立するために、21年に常設国際司法裁判所を設立し、22年にワシントン海軍軍縮条約を実現させた。もちろん共和党政権のみの功績ではないが、彼らが、国内的には自由放任経済を貫いたこととは対照的に、積極的にこれらの難題に取り組んだことは事実である。

 米国社会はさらに戦争の違法化を追求し、21年末には戦争違法化委員会が発足し、クーリッジもこれを唱え、28年には不戦条約として結実する。米国はこれを多国間の条約とすることを提唱し、条約にその名が記された署名国は15カ国となり、その中には日本も含まれた。

 これを受けて、国際連盟規約に不戦条約の内容を盛り込む動きが活発化し、総会は29年9月24日に「戦争放棄に関するパリ条約を国際連盟加盟国が全般的に参加した結果としての連盟規約の改正」を決議する。これを受けて30年1月15日には理事会が委員会を設置し、5月30日に報告書を公表した。日本も常任理事国としてこれに関わった。

 これを踏まえて総会の委員会が改正案を発表し、各国が見解を寄せたが、日本は31年6月30日付書簡で「改正案が自衛権の行使にはいかなる影響も持たないとの了解の上で、これらの改正に原則として賛成」した。この自衛権とは、南満州鉄道と炭鉱などを含む広大なその付属地などを始めとするいわゆる「特殊権益」を念頭に置いたものだった。

 もちろん中国はこのことを承知しており、日本より1ヶ月半早い5月14日付で提出した書簡で、「改正に賛成する。国際紛争においては、時に一方の国が他方に対して軍事行動をとることにより威嚇を試み、その後に実際に宣戦を布告し、しばらくは法的に戦争を認めることを避けることがあるが、中国政府はさらにこのことを検討したい。国際的な場におけるこのような侵略は、明らかに国際連盟規約とパリ条約の両方の目的に反している。従って、中国政府は、このような危険を防ぐための何らかの効果的な措置も規約に盛り込まれることが賢明であると考える」と主張していた。

 2 踏みにじられた不戦条約

 9月18日、関東軍が柳条湖事件を起こす。そしてこの後の戦争は、中国が予告したように、「戦争」ではなく満州「事変」と呼ばれることになる。9月22日、中国の要請により開催された連盟理事会では芳澤謙吉が、「中国代表は、この出来事は中国兵側の挑発がない中で引き起こされたと主張しているが、これは単に言い張っているに過ぎない。明白な証拠を欠いては我々は受け入れられない。我々が得ている公式情報によると、この出来事は奉天近くの日本の鉄道の一部を中国兵が破壊したことによって引き起こされた」と強弁した。

 右派の雑誌で、不戦条約にも強く反対した『日本及日本人』は、鉄兜騎士の筆名による巻頭文で「外交の巧拙は支那に及ばぬ事甚だ遠い。東洋の君子国は寧ろバカ正直というほどの正直一途」と断じた。21世紀の日本右翼風に言えば、フェイク・ニュースやハッキングを駆使する中国に対して、愚直な日本は情報戦で負けている、または、プーチン風に言えば、中国(ウクライナ)の巧妙な自作自演に踊らされて、反日(反ロシア)勢力がいわれのない非難を展開していると主張したのである。

 32年11月21日の理事会では松岡洋右が、「委員会は『この夜の日本兵の軍事活動は合法的な自衛措置とは見なせない』と述べているが、我々は同意できない。」「日本政府は……28年5月26日のアメリカ大使に対する覚え書きにおいても『(不戦条約に関する)合衆国の提案は独立国の自衛権を否定するなにものも含まれていないと理解される』と強調することを忘れていない」と述べた。日本が主張する自衛権の正体が明らかになる中でも、なお言い続けていた。

 一方、29年にはウォール街で株価の大暴落が起こり、黄金の20年代から転じて暗黒の30年代が始まっていた。そしてこの二つの出来事は、20年代の共和党政権への評価を逆転させた。その中で日本は37年に全面的な中国侵略を始める。ナチスがポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第2次世界大戦が始まる2年前だった。

 しかしそれでも米国では平和主義が支持された。米国はなぜ第1次大戦に参戦したのかを問う議論が高まり、参戦により利益を得た軍需産業の策動に関心が集まった。この代表的な著作が34年に出版された『死の商人』だった。共和党のジェラルド・ナイ上院議員はこれを重視し、軍需産業を批判的に調査する委員会を主催し、2年間に200人近い証人を呼び、13万ドル以上を使い、全39冊、計1万3千ページを超える記録を残した。また米国議会は35年には戦争状態の国への武器や軍需物資の輸出を禁じる中立法を成立させた。不況に苦しみながらも社会全体の平和主義の動きは根強かった。39年にナチスがポーランドに侵攻し、40年にはフランスが敗北するが、それでもなお参戦反対を訴えるアメリカ・ファースト委員会が発足し、米国史上最大の反戦団体の一つとなった。政府も、中国侵略を続ける日本との関係を維持した。

 しかし、日本のパールハーバー攻撃がこれを根底から覆し、平和主義者の多くは姿勢を大きく変えた。この一人が『死の商人』の執筆者の一人フランク・ハニゲンだった。彼はヨーロッパ特派員として活動し、36年にはピューリッツァー賞も受け、アメリカ・ファースト委員会でも活躍したが、パールハーバー後は戦闘的な反共主義者となるのである。

 『死の商人』は出版されたその年のうちに邦訳が作られた。ただし原著が一章を割いていた日本の軍需産業については省かれた。その代わり、翻訳者によって次のような文章が付け加えられた。

 「いまや支那政府には、欧米より、盛んに飛行機が売込まれ、一大飛行場が設置されて、東洋の空はいよいよ風雲急を告げるものがある。この秋にあたつて、われわれは、何よりもまづ支那を巧みに操縦する欧米の軍需品会社の魔手を厳正に監視しなければならぬ。平和をみだす張本人が、何人であるか、それは云はずと知れた悪辣なる欧米の軍需品会社だ」(『世界兵器工場物語』はしがき)

 翻訳をしたのは、米国のチェーン店などを日本に紹介していた大江新吉だった。米国の平和主義者が自らの社会を追究するために書いた本が、日本軍国主義が責任転嫁するための道具に姿を変えたのである。

 3 不戦条約に関する叙述

 米国政治史の指導的な研究者として知られたロバート・フェレルは、「パリ条約は、紛争の回避または戦闘の開始後にはその解決においては、わずかな価値しか持ちないことがすぐに証明された」「八紘一宇達成の前段階として、1931年、ついに運命の『満州事変』が始まったのである」(Robert H. Ferrell “Peace in Their Time: The origin of the Kellogg Briand pact”, 1952)と評した。

 対照的に新保守派の立場からクーリッジの再評価に努めるアミティー・シュレイズも、「確かに、クーリッジが人間としても大統領としても至らなかった分野もある」「彼は、ムッソリーニ、ヒトラーまたは日本の指導者たちが国際軍縮条約から利益を得て、これらを戦争のための武装を隠すために利用することを考えなかった」(Amity Shlaes “Coolidge”, 2013)と、クーリッジの落ち度として記述する。ヒトラーの登場よりも前に不戦条約を否定した上に、ナチスが侵略を始めた後も残っていた平和主義に決定的な打撃を与えたのが日本軍国主義であることは、立場を超えて当然の事実だった。

 ところが日本の研究者は、護憲派、リベラル派であっても、日本軍国主義の役割を甘く記述する一方、戦後の日本を不戦条約とつなげて積極的に描きがちである。例えば三牧聖子は「大戦間期に戦争が違法化されていく過程で、日本は、理論上でも実践上でも、目立った貢献ができなかった」「日本は、不戦条約の締約国に名を連ねたが、決してその理念に賛同していたわけではなく、多分に大勢順応的な判断であった。日本はその後、『自衛』の大義名分の下、不戦条約に違反ではないと主張しながら、アジアにおいて明らかに不戦条約の理念に反した戦争へと突き進んでいった。しかし第2次世界大戦後、こうした状況は一転する。戦争放棄を定めた平和憲法を抱いて再出発した」(三牧『戦争違法化運動の時代』2014)と表現し、牧野雅彦も「アメリカが集団安全保障の体制へと決定的に踏み出そうとしたまさにその段階で、日本はこれと原理的に対立する不戦条約の全面的戦争放棄を旗印として掲げることになった」(牧野『不戦条約』2020)と、平和主義から姿を変えた米国と対照的な存在として戦後日本を位置づける。

 また、憲法に対抗する安保条約と対米関係を「従属」、「国体」などと評する動きも改めて見られる(例えば白井聡『国体論』2018、古関彰一『対米従属の構造』2020など)。さらに、日本軍国主義やナチスからの教訓をもとに米国などが作り上げた戦後体制に対する批判もしばしば見られる。例えば江橋崇は「国連(United Nations)は、第2次世界大戦中の軍事同盟である連合国(United Nations)を基にして、1945年に設立され、その憲章には、連合国と対戦した日本やドイツなどについては差別的な処遇を認める敵国条項(第53条など)を持っている。日本国憲法前文は、日本が連合国に哀願してこの指名手配を解除してもらい、かつての敵方の末席に連ねさせてもらうことを至上の名誉としたことになる」と、いささか民族主義的に記述する(江橋『日本国憲法のお誕生』2020)。

 4 集団的自衛権と憲法

 45年5月23日、国連創設会議において、米英中ソが策定した国連憲章案にはなかった個別的集団的自衛権を認める国連憲章第51条を挿入する修正案が、全会一致で採択された。ラテン・アメリカ諸国の提案によるもので、安保理が集団安全保障、すなわち国連軍を発動させるまでの暫定措置として、個別的自衛権に加えて、集団で自衛する権利すなわち軍事同盟を結ぶ権利を認めたのである。

 しかしこれでは終わらなかった。6月6日にはニュージーランドが提案する、現在の国連憲章第2条の「原則」に「全ての加盟国は、いずれかの国に対する侵略行動に集団的に抵抗する」条項を盛り込む修正が委員会で採決された。憲章第51条があくまで暫定措置として軍事同盟を認めたのに対して、加盟国の権利として認めようとしたのである。2

 ニュージーランドは、「もしニュージーランドが提案しているような保証が憲章に盛り込まれないのであれば、その規定の意味合いが世界の人々に完全に理解された時に、特に小規模な国々の間で、強い失望が生じるだろう」と述べた。個別的集団的自衛権を提案したラテン・アメリカの一員であるペルーも、「この提案は米州機構の本質を示していることから、ニュージーランド代表を支持」した。この修正案は賛成26、反対18と過半数の支持を得たが、原案の修正には2/3以上の賛成が必要とされることに事前に各国が合意していたことから、否決された。支持はもっぱら中小国だった。

 ここで想定されたのは日本軍国主義だった。戦中、日本はオーストラリアを100回以上爆撃し、オーストラリアを恐怖に陥れた。当時のオーストラリアの人口は約1千万人に過ぎず、巨大な人口を抱える中国ですら苦戦を続けた強力な日本軍への警戒は戦後も衰えなかった。そしてオーストラリアと比べれば面積も人口も比較にならないニュージーランドではなおさらだった。集団的自衛権とは、異常な日本軍国主義の復活に対して小国が求めた保障措置とも言うことができた。

 ところが日本自身がこの規定を積極的に利用して安保条約を結んだ。しかしそのためには憲法を改正し、戦争犯罪人を処罰することが不可欠だった。さらに四月号で見たように、旧安保条約はポツダム宣言とつながるように作られており、文言上は、民主化され非武装となった日本を、未だに残る日本軍国主義の攻撃から守るためのものとされた。

 そもそも戦争放棄は、3月号で見たように天皇制を残すための方策として導入された。世界に天皇崇拝を強制し、自分たち自身も天皇を守るためならば自爆攻撃すら採用する。これが日本軍国主義であり、天皇制はその根幹に位置する。だからこそ天皇制を解体すべきだが、統治当事者である米国は天皇制の維持を選択せざるを得ず、各国が正式に主張を始める前にこれを既成事実化する必要があり、憲法案の策定が急がれた。

 このように見ると、国際連盟、常設国際司法裁判所、海軍軍縮条約、不戦条約、国連憲章、ポツダム宣言、日本国憲法、極東国際軍事裁判、対日講和条約、安全保障条約には、一貫した流れがある。この全てに深く関わっている唯一の国が米国なのだが、改憲派も護憲派も、都合良くつまみ食いをしている。  おわりに

 日本史上、女性を含む初めての普通選挙を通じた民主的な手続きを経て採択されたのは、王制だった。矛盾である。しかも現在残っている王制の中で、近い過去にこれほど国民に犠牲を強いた王制は天皇制以外にない。それにもかかわらず日本政府は天皇制維持に全力を注ぎ、国民の多くもそれを支持した。

 しかしこれでは日本軍国主義復活の可能性が残る。だからこそ九条が導入されたが、それでも対日政策を決定する最高機関である極東委員会では将来的な天皇制の廃止が表明された。その意味で九条が守ってきたのは天皇制であり、同時にアジアの平和である。そのような中でもし九条を変えるのならば、天皇制を廃止しなければならない。逆に天皇制を維持したいのであれば、九条を死守する必要がある。

 これに対して、日本軍国主義は間違っていないと露骨に語る政治家も多いが、それは人類史の逆行に他ならない。ナチスに対する警戒がヨーロッパにおいて普遍的な意味を持つ、現代世界の出発点であるように。だからこそ、プーチンはウクライナへの侵攻の口実としてネオナチを利用し、それをロシア社会がそれなりに支持する背景となる。そして日本軍国主義復活の阻止は、軍事行動の理屈として、アジアでは最も広く容認されるものである点で、ヨーロッパにおけるナチスと同様の地位をアジアにおいては日本軍国主義が占める。

 あえて皮肉を込めて言えば、もし侵略される口実を他国に与えたくないのならば、9条を変えてはならないのである。

 偶然にもこのことが明確に示されたのが、ウクライナ政府の公式ツィッターにヒトラー、ムソリーニと昭和天皇の顔写真を並べた動画が掲載された問題だった。日本政府が抗議してこの動画は削除され、ウクライナ政府は謝罪したが、4月25日の記者会見で、磯崎仁彦官房副長官はニコニコ動画や産経の記者からの質問を受けて、ウクライナ支援を「これからもしっかりやっていく」と述べた。この問題が支援の見直しに繋がる可能性もあることを示した形となった。

 これと比較すると、おそらく政府は北朝鮮を脅威とは考えていない。もし深刻な脅威があり、それへの対処を最優先するのであれば、日韓関係の悪化を放置することなどできないからである。ましてや自ら日韓関係を悪化させ、日韓秘密軍事情報保護協定を失効に追い込むなど考えられない。軍事機密の共有よりも歴史認識に関する右翼のプライドの方が重要だったのであり、北朝鮮の脅威とはその程度のものにすぎない。悲劇に晒され、少しでも多くの国際的な支援を求めているウクライナ政府が、反論も言い訳もせずに日本に謝罪して、日本からの支援をつなぎ止めざるを得なかったこととは対照的である。