【進歩と改革2022年5月号】掲載


ロシアのウクライナ侵攻と改憲  

 はじめに

 2月24日、ロシアがウクライナに侵攻した。これに対して欧米諸国は激しい非難を重ねているが、3月20日の段階ではプーチン大統領の姿勢は変わらず、被害の拡大が続いている。一方、ロシアに対して明快な批判を表明しない中国やインドに対する批判や、この侵攻を防げなかった国連安保理への批判も多く出され、改めて安保理改革が主張され、日本の常任化にも岸田首相が言及する事態に至っている。

 また朝日が3月19、20日に行った世論調査によれば、「今後10年の間に、世界のどこかで核兵器が使われると思」うと答える者が51%に、「日本の原子力発電所が他の国から攻撃される不安を感じ」る者は59%に達した。

 このような中で、衆院憲法審査会は3月3日、緊急事態などの場合に本会議の開催が必要な際は「例外的に」オンライン出席も含まれるとの意見を「大勢」とする報告を1ヶ月弱の審議で可決し、参院でも憲法審査会が開催された。その後も与党などから、緊急事態時の対応に関する議論を求める動きが続いている。さらには、安倍元首相が核の共同保有に言及するなど、改憲への動きが止まらない。24日に北朝鮮が行ったミサイル実験がこの傾向にさらに拍車をかけている。

 今月、憲法施行75周年を記念する憲法記念日を迎える。編集部からのご依頼もあり、前号から引き続いて欧米諸国から見た集団的自衛権の意味をまとめる予定だったが、このような状況をふまえて、ロシアのウクライナ侵攻の視点から考えたい。

1 イラク戦争とウクライナ侵攻

 プーチンが独裁者であり、ウクライナの惨劇に関して全面的な責任を負うことに議論の余地はない。しかし現在の議論の状況には、特に日本に関して違和感を覚える。最大の問題は、ウクライナ侵攻の前後にプーチンも繰り返し触れていたイラク戦争への言及が、全くと言って良いほどないのである。

 2003年3月20日、米英が、イラクが大量破壊兵器を保有しており、発射準備を整えていると称して、世界中で出された反対の声を押し切り、国連を無視して一方的に戦争を始めた。強く反対した国の中には、フランス、ドイツそしてロシアもいた。プーチンがロシア大統領に就任したのは2000年5月である。彼は、ブッシュ政権が様々な国際的合意を無視し、9・11後にはかつてはソ連に隣接していたアフガニスタンを爆撃し、さらにイラク戦争に突き進む状況にどのように対応するかに悩まされていたのである。

 そしてこの戦争を一貫して支持したのが日本だった。しかも形式的な支持に留まらず、当時は世界第2を誇っていた経済力を背景にして中小国に支持を働きかけるなど、積極的に行動した。これを国益のためとして正当化した上でイラク戦争を支持しない国連を批判し、国連改革を主導し、その文脈で自国の安保理常任理事国化を目指した。そしてフセイン政権が倒れた後は人道支援のためと称して自衛隊を派遣した。

 このような20年前の日本に比べれば、現在の中国が国益のために明確にロシアに反対しないとしても、十分に平和的で穏健である。さらに言えば、イラク戦争当時、世界第2の経済力でありながら、国益を優先させて戦争推進に躊躇しなかった日本だからこそ、現在世界第2の経済力を誇る中国をしても、いやだからこそ、経済の舵取りが難しい状態でロシアに強い態度をとれないとしても、そのことをよく理解できるはずである。

 また、もし、ロシアが制圧した後のウクライナに中国が人道支援と称して軍隊を派遣したとしても、日本社会は賞賛こそすれ、批判するはずはない。自衛隊はイラク人の反発を恐れて防御を固めた基地に籠もっていたが、中国軍がウクライナ人の反発を恐れて、同様の姿勢をとったとしても、やはり日本社会は共感を深めなければおかしい。

 しかもイラク戦争の理由とされた大量破壊兵器は見つからなかった。プーチンがウクライナ侵攻の理由とした親ロシア住民の保護と比べても根拠が薄弱な戦争だったが、日本社会は自らの責任に向き合うことはしなかった。

 サダム・フセイン・元イラク大統領が独裁的で、多くの問題を持っていたことは言うまでもない。しかし、少なくとも大量破壊兵器を使用できる状況にはなかったイラクに、米英が一方的に戦争をしかけて体制を転覆させたこと、そしてこれが特に中央アジアから北アフリカを中心とする地域の人々の反発を招いたこと、さらにはISなどの過激派の台頭を促したことも事実である。特に当初はISを支持する動きが世界各地で見られ、資金を援助する者や戦闘員となる者も多く、IS支配地域へ家族で移住する者も見られた。もちろん当時はISの実態が十分に知られていなかったことも背景にあったが、それにしてもそれほど不公正感が世界に満ちていたこと、そしてその不公正の拡大に日本が関わっていたことを軽視してはならない。

 その後、特にシリアのアサド政権がISを攻撃すると同時に民主化運動やクルド人に対する弾圧を強め、さらにプーチンがアサドを支援したことで、悲惨な状況が生み出された。2011年以降、660万人が難民として世界に散らばり、670万人が国内避難民となったのである。その多くを受け入れたのは周辺諸国だが、イラク戦争に反対していたヨーロッパ諸国も、ドイツの80万人を筆頭に受け入れた。一方、英国はEUを離脱したがその理由の一つには、このような難民受け入れの問題もあった。イラク戦争を主導し、この難民問題の原因を生み出した国こそ英国だったのだが。付言すると、英国はウクライナ難民の受け入れについても消極的で、3月の時点では隣国のアイルランドの10分の1以下に留まる。総人口ではアイルランドは英国の13分の1程度なので、人口比でみれば、英国のウクライナ難民受け入れ状況は比較対象にもならない。

 英国と同様にイラク戦争に賛成した日本は、英国以上に難民に対して否定的な態度を続けた。ロヒンギャ難民など、近隣諸国の問題に関しても受け入れに消極的で、コロナ前の2019年には、10375人の難民申請者に対して、認定されたのは44人に留まった。利益のために戦争を推進するが、その結果起きる惨劇に対して責任をとることはなかったのである。これは単に難民認定について厳しいだけではなく、名古屋出入国在留管理局が収容していたスリランカ人のウィシュマさんが死亡した事件が象徴するように、「外国人」に対する冷酷なまでの姿勢が貫かれている。

 ところがウクライナ難民については比較的にではあるが積極的な支援を決めている。人権、民主制、環境などの問題に関して日本はヨーロッパと理念を共有しているとはとても言えないが、だからこそヨーロッパの問題に対しては、アジアとは異なる態度をとることで、かけ離れている理念の裂け目を取り繕ろおうとしていると言わざるを得ない。なお、ISなどの問題は中国のウイグル政策にも影響を与え、特に日本右派はこの問題に関して中国への非難を強めるが、ISなどの問題に関してはイラク戦争を支持した日本右派の責任が無視できない。

 2 緊急特別総会と安保理

 緊急特別総会においてロシアを非難する決議が採択されたが、その際に提案国数や賛否の詳細が注目を集めて報道され、また南アフリカなど、開発途上国の中に必ずしもロシア非難に積極的ではない国がいることが、ロシアとの経済関係などから批判的に報じられている。しかしこれもやや単純な姿勢である。

 緊急特別総会は、安保理が決定を下すことができない場合に、安保理理事国の9カ国の賛成または加盟国の過半数の要請によって開催することができる。この開催手続きが決められたのは1950年だが、それ以降の70年間に、今回のウクライナ侵攻を含めてこれまで開催されたのは11回に留まる。まれにしか開催されていないと言うことができるが、それにもかかわらず第2次中東戦争に関する56年の第1回緊急特別総会以来、過半の6回が中東・パレスチナ問題に関して開催されている。しかも単に数が多いだけではない。

 1980年3月1日、安保理が、1967年の第3次中東戦争以来、イスラエルが占領した土地と入植の無効を宣言した。しかしイスラエルがこれを無視し、4月30日には米国が拒否権を行使したことを受けて、第7回緊急特別総会が開催された。進展がないまま休会するが、82年、イスラエルがレバノンに侵攻し、PLO本部もチュニジアに移転せざるを得なくなる中で再開された。82年9月24日に休会を宣言し、必要に応じて再開できる状況が今も続いている。82年にはイスラエルによるシリアのゴラン高原占領についても第九回緊急特別総会が開催された。

 97年には東エルサレムとイスラエルによる占領地域に対するイスラエルの入植について第10回緊急特別総会が開催された。この緊急特別総会も正式に閉会しておらず、特にブッシュ政権下でイスラエルが入植を推めると同時に西岸地区に入り込む形で壁を建設し、ガザ地区を軍事封鎖する中で、2009年まで毎年のように招集が続けられた。そしてこの間に行われたのが米軍によるアフガニスタン爆撃からイラク戦争であり、中央アジア以西の地域が抱える矛盾はさらに深刻さを増した。第10回緊急特別総会はこれまで18回開かれ、トランプ政権がエルサレムをイスラエルの首都と認め、大使館をエルサレムに異動した2017、18年にも開催された。今も休会状態が続いている。

 しかし度重なる緊急特別総会にもかかわらず、西岸地区やガザ地区の惨状は今も続き、各国に散らばった難民の状況も変わっていない。これは、中東・パレスチナ問題に関しては安保理が拒否権により機能しない状況が恒常化していることも意味する。また、エルサレムを国際管理としたのは1947年の総会決議だが、それ以降、多くの総会決議、安保理決議、国際司法裁判所の勧告が無視されてきた。しかしそれにもかかわらず、日本や米国において国連の無力さが嘆かれることはほとんどなかった。

 このように見ると、ウクライナ侵攻に関して開催された第11回緊急特別総会において、中立的と見なされている中東・アフリカ諸国などの中にも必ずしもロシア非難に積極的ではない国がいるのも理解できるだろう。シリアや北朝鮮などはともかく、南アフリカが親ロシア的と見なされる決議案の採決に固執したことが驚きを持って報じられているが、これらの背景について、先進国がこれらの国に押しつけてきた矛盾を顧みずに、それらの国とロシアとの経済的関係や歴史的な結びつき、またはそれらの国の独裁的な体制からのみ説明するのは単純である。

 また、ロシアの侵攻を止められなかったとして安保理のあり方も批判されているが、イラク戦争の際は正反対の姿勢を示していたのが日本だった。イラク戦争を安保理が支持しないことを問題にしたのだから。

 また1981年に、イラクの原子力施設をイスラエルが突然攻撃し、破壊したことも思い返されて良い。これはフランスから提供されたもので、国際原子力機関の査察も受けており、イラクは平和的な施設だと主張していた。国連総会で反対したのはイスラエルとレーガン政権下の米国だけだった。

 3 踏みにじられた90年代

 ロシアの侵攻が世界秩序を破壊する等の論評も多い。しかし実はイラク戦争こそが、90年代を通して積み重ねられた環境、人権、軍縮、紛争解決などの問題を話し合いを通じて推進させる努力を踏みにじるものだった。

 90年代は、冷戦期に各国が目を背けてきた様々な問題が、改めて問いなおされた時期でもあった。92年に地球環境会議が開催されたことを皮切りに、翌93年には世界人権会議、94年に人口会議、95年に社会開発サミット、95年に女性会議など、経済社会分野の大規模会議が次々に開催された。現在、日本政府レベルでも重視されるようになったSDGsに直接に繋がる動きだった。また、92年5月に国際司法裁判所(ICJ)に核兵器の違法性を訴える世界法廷プロジェクトが発足し、94年11月には国連総会でICJに韓国的意見を求める決議が採択された。これに応えてICJは九六年七月に核兵器を原則違法とする意見を出す。これは2017年に採択された核兵器使用禁止条約に発展する。さらに、軍縮関係で初めて例外のない一切の禁止を定めた対人地雷禁止条約が97年に署名されたことも特筆される。

 第2次世界大戦以降、長年の課題だった戦争犯罪を問う国際刑事裁判所の設立についても動きが始まり、98年に裁判所規程が採択され、ウクライナに関しても動向が注目されている。さらに、93年にはパレスチナの暫定自治が合意され、94年には南アフリカが民主化するなど、長年の深刻な紛争において画期的な進展が見られた。

 ところが90年代半ばに台頭した米国保守派がこれらの動きに反発した。特に地球温暖化問題、核、国際刑事裁判所などは、その後の米国政治を二分する問題にもなる。そして、これらの努力を一挙に踏みにじる象徴となったのがイラク戦争だった。本誌21年11月号で、イラン改革派のハタミが主導した文明間の対話問題に触れたが、これもブッシュ政権によって踏みにじられ、実現しなかったエピソードの一つに矮小化されてしまった。このように見ると、2015五年のSDGs採択や、17年の核兵器使用禁止条約などが、日米が踏みにじった努力を再構築するものであることが、改めて理解できよう。

 北朝鮮情勢の緊迫化がこの時期であることも念頭に置かれるべきである。18年7月号で取り上げたように、98年に大統領となったキム・デジュンは2000年3月に、南北統一を急ぐことは南北の共倒れを意味することから、共存を進めるしかないと表明した。これは決して理想を表明したものではなく、むしろ理想を押さえて現実を重視するものだった。

 ところがブッシュ政権は、イラクとともに北朝鮮の名を挙げて対決姿勢を露わにする。この中で北朝鮮は日朝関係の改善に取り組み、02年9 月の実現した小泉とキム・ジョンイルの会談に至り、キム・ジョンイルは日本人拉致を認めて謝罪した。日本人が納得するかどうかはともかく、北朝鮮にとってはキム・ジョンイルが自ら謝罪する以上の謝罪はあり得ず、最大の妥協だった。北朝鮮が最も日本に近づいた瞬間だったが、これを契機に日本社会は北朝鮮に対して強硬な姿勢を強める。北朝鮮の対日妥協は意味がなく、間違っていたことになる。この結果、日朝会談を進めた北朝鮮内部の日本派は力を失い、一部は粛正された。

 しかも日本はイラク戦争に突き進み、この結果、大量破壊兵器を持っていなかったフセイン体制が倒され、さらにその後の中東の民主化において、核兵器を放棄したリビアのカダフィも倒れる。北朝鮮から見れば、体制維持のためには核兵器を持つ以外にない状況に追い込まれたことになる。

 北朝鮮の核武装に対して、日本は制裁を主導して今に至る。これらの結果、日本と北朝鮮の間のチャンネルは失われ、日本がとりえる政策の選択肢もなくなった。北朝鮮が注意を払う必要があるのは米国のみであり、日本は相手にするべき存在ではなくなった。明らかに日本外交の失敗だった。

 おわりに

 今の日本政治の常套句に「力による変更」がある。ウクライナ侵攻に関しても繰り返されているが、これが頻繁に使われるようになるのは2013年からで、例えば2月28日の衆議院予算委員会で、政権発足直後の安倍晋三が尖閣諸島に関して使い、外交青書においても14 年4月に発行された2014年版から登場する。安倍外交を象徴する言葉の一つだが、その10年前に、世界第2の経済力を背景にして、それまで積み重ねられた話し合いの成果を踏みにじり、力によって現状を変更しようとして世界を混乱に陥れた勢力の一つは間違いなく日本だった。そして、官房副長官としてその中核にいたのは安倍であり、北朝鮮に対する強硬姿勢を主導したのも安倍だった。

 イラク戦争を主導した米国では反省が進んだ。軍事を重視し、アフガニスタン爆撃やイラク戦争を推進した新保守派は退潮し、保守派内では対外的関与を軽視する動きが強まり、トランプ政権を生み出した。今も、共和党はトランプに乗っ取られたと言われる状況が続く一方、バイデン政権はアフガニスタンから米軍を撤退させた。もちろんそのことをもって米国の責任が薄れるわけではなく、米国が関与を弱めることを単純に肯定しているのでもない。またトランプ的な動きを肯定するのでもない。しかし、平和のための世界的な努力を踏みにじったこれらの軍事行動が米国社会にも大きな傷を与え、姿勢の転換をせざるを得なくなったことは、重要である。

 ところが日本では過去20年間の自国の姿勢を批判する動きが弱く、20年11月号でも取り上げたように、内政面では安倍政権を批判してきた朝日や毎日が安倍外交を肯定的に評価している。両紙は今回取り上げたようにウクライナに関しても近視眼的である。これでは予算案に賛成する野党のようなものだろう。だからこそ改憲の動きが止まらない。憲法の危機は、国際情勢の不安定さにあるのでも、社会の右傾化にあるのでもない。外交政策をチェックする報道機関がないことにある。