【進歩と改革2022年4月号】掲載


憲法施行75周年 東京裁判と安保条約

 前号に続き憲法制定を取り上げる。

 天皇制維持のために戦争を放棄したが、裕仁本人の戦争責任は拭えない。東京裁判の開廷は46年5月3日に迫っていた。米国は裕仁を訴追しないことを決め、6月18日、キーナン首席検事がこれを表明した。

 すでに対日政策の最高決定機関である極東委員会が2月25日に成立しており、3月6日には政府がマッカーサー草案の趣旨に基づく憲法改正草案要綱を発表していた。一方、前号で見たように、極東委員会ではその成立に先立って憲法案が発表されたことに対して不満が示され、将来的な天皇制廃止にも言及していた。

 松本憲法担当大臣は1945年12月9日には「私ハドコマデモ憲法ノ天皇ヲ統治權ノ總攬者トシテ居ルト云フ主義ヲ守ツテ參ル」と断じており、国会でも資料として配付された後に回収されるなど秘密裏に取り扱われていたが、46年2月1日に毎日新聞がスクープしたことで広く知られるようになった。

 歴史にifはないが、日本政府が秘密を貫いてGHQを出し抜き、極東委員会の発足に至ったり、日本の頑なな姿勢にGHQが手を焼いていることが周知される中で極東委員会が発足していれば、憲法制定に対するその影響力が大きくなり、天皇を免訴したことへの反発が増す事態もあり得た。戦争を放棄しても天皇制を維持できず、米国の間接統治方針にも批判が集まる可能性もあり、前号の枢密院における幣原首相の説明のように、天皇制維持の立場から見れば「危機一髪」だったのである。

 11月3日、天皇は「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび」「帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめ」た。天皇は、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意志ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」の樹立を求めるポツダム宣言に基づき、終戦の詔勅で「忠良ナル爾臣民之赤誠ニ信倚シ」て「茲ニ國體ヲ護持シ得」た、つまり、忠実な日本臣民は民主化しても天皇制を支持することを信頼すると表明して、降伏した。これに倣えば、「朕」が深くよろこんだのは、天皇の居場所が定まったことだった。象徴天皇制は、東京裁判の天皇免訴と戦争放棄により成立し得た、ポツダム宣言と終戦の詔書の妥協だった。

 48年11月12日、極東国際軍事裁判が、被告25人を有罪、東条英機ら7人を絞首刑とする判決を出す。ここで戦犯が確定したことにより、「日本」と「日本軍国主義」が区別されると同時に、訴追されなかった天皇個人も「日本軍国主義」の側にはいなかったことが確定した。ただしこれは、78年、靖国神社のA級戦犯合祀により揺さぶられる。昭和天皇が怒ったのは当然だった。

 しかし戦犯が確定しても対日講和には直結せず、49年5月6日、米国政府の国家安全保障会議は対日政策に関して「対日平和条約の手順と内容に関しての関係諸国間の意見の相違の拡大にかんがみまたソ連の侵略的な共産主義拡大政策によって生じた容易ならぬ国際情勢にかんがみて、政府は現時点において平和条約を急ぐべきではない」と勧告した(NSC13/3)。米ソ対立が激しくなる中で対日平和条約のあり方も対立要因になり、米国にとっても早期講和は困難になっていたのである。

 ところが11月1日、米国が平和条約を検討中であることが明かされた。この1ヶ月前、中華人民共和国が建国を宣言し、米国にとってソ連の脅威が大きく拡大しており、軋轢を生んでも日本を自陣営に組み込む必要が生じたのである。

 そのような中で、50年2月1日、ソ連が天皇の戦犯裁判を要求する。これに先だつ1月13日、ソ連が国連安全保障理事会に提出した、蒋介石政権代表を削除する決議案が否決され、ソ連は安保理のボイコットを始めていた。米ソ対立激化の中で改めて「国体護持」が政治問題化したのである。天皇制の維持は日本が歴史の負債を抱えること、そしてそれが折に触れて顕在化するのを避けられないことを意味した。

 6月25日に朝鮮戦争が勃発し、米国の講和へ向けた動きは決定的となり、51年9月8日、ソ連や中国などを除く国々との間で平和条約が結ばれるに至る。ここで、「日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守」「連合国は、前項に掲げた日本国の意思を歓迎」した。日本軍国主義と区別された日本が日本軍国主義などの侵略の教訓をふまえた平和維持機関として作られた国連に加盟希望したのである。これは、日本が日本軍国主義を撲滅することの意思表明に他ならなかった。

 同時に締結された日米安保条約はその論理を次のように説明した。「日本国は、武装を解除されているので」「自衛権を行使する有効な手段をもたない。無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので」「日本国には危険がある。よって、日本国は」「安全保障条約を希望する。平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。」

 この「無責任な軍国主義」という言葉は、日本軍国主義を指すポツダム宣言の「無責任ナル軍国主義」に基づいていた。そして沖縄戦と並行して作られた国連憲章には、日本軍国主義への警戒もあり、集団的自衛権が盛り込まれた。つまり日本軍国主義を駆逐するために日本は武装解除したが、日本軍国主義はまだ駆逐されておらず、日本を襲うかもしれないので、日本軍国主義を念頭に置いて認められた集団的自衛権を行使するとの論理構成だった。これにより、なお世界から消えない日本軍国主義への警戒を隠れ蓑にした対ソ軍事同盟が言葉の上で合理化され、日本国憲法との整合性もつけられた。

 ただし、独立を回復すればもはや連合国に気を遣う必要はない。便法に過ぎなかった九条はただの厄介者になり、改廃が叫ばれるようになる。安保条約の論理に従えば、日本軍国主義の正当化などあり得ないのだが、これも簡単に反故にされた。

 改憲派は東京裁判を批判し、憲法を米国の押しつけとして拒絶する。それは天皇制を否定することにも繋がるのだが、彼らはそれすら認識しない。一方、護憲派はGHQの方針転換や安保条約をめぐる米国の動きを批判する傾向が強いが、是非はともかく、客観的な視点を持ち得ていないことでは共通している。そして護憲派も、日本軍国主義の異常さ、特に天皇制維持のために手段を選ばない奇怪さを軽視しがちなのだが、この点は次号で取り上げたい。