【進歩と改革2022年3月号】掲載


憲法施行75周年 国体護持と日本外交

 小室眞子さんの結婚が注目された中、1月12日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の報告が岸田首相から衆参議長に渡された。

 天皇制は、首脳の接受などに留まらず、2つの面から日本外交にとっても重要である。1つは、大使・公使は天皇が直接認証するいわば親任官で、宮内庁式部官長なども外務官僚が任くことである。天皇制は外務官僚にとり特別な意味を持つ。第2は敗戦後の日本外交の最重要課題が天皇制の維持だったことである。そこで、周知のことではあるが、国際問題としての憲法についてまとめる。

 17年、外交史料館が占領期の外交文書を3巻、全2364頁にまとめて出版したが、その中の280頁を憲法制定関係資料が占めた。占領政策への対応の922頁、邦人引揚げ問題の779頁、中間賠償の316頁に次ぐが、憲法制定が1年で終わったことを踏まえると、分量の多さが際立つ。改憲は政府が最重視する外交問題だった。

 1945年8月10日、日本政府は、中立のスイスとスウェーデンを通じて連合国にポツダム宣言受諾を申し入れた。この宣言が「日本国国民ノ自由ニ表明セル意志ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」の樹立を求めていることを受け、「天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包合シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」したのである。

 しかし、この一方的な了解が受け入れられる保証はなかった。同日、政府は両国に駐箚する公使に「天皇ノ御地位……ニ關スル我方ノ了解ハ絶對ノモノナリ従テ聯合國政府ニ於テハ之ニ同意セラルルコトニ困難ナキヲ信スル」と伝え、15日にも、両公使らに「國体護持ノ爲有ラユル努力ヲ拂フノ要」を伝え、連合国軍先発隊到着の前日、27日にも「日本國々民ノ自由意思ニ依リ決定セラルルモノナレバ日本人ノ忠誠心ニモ鑑ミ事實問題トシテ國体ノ變革ヲ來スガ如キ虞ハ絶對ニナシト信ズ」と、確認を続けた。不安は消えなかった。

 10月3日になっても法相が「政治犯釈放の如きは考慮してゐない」と表明するなど、政府は「国体護持」のための国民統制を続けた。翌日、GHQは政治的・民事的・宗教的自由制限を撤廃する「公民権指令」を発するが、東久邇内閣はこれを実行できないとして総辞職する。民主化と天皇制が相容れないことを彼らはよく理解していたのである。

 10月11日、外務省は「帝国憲法改正問題試案」を作成するが、ここでも「如何ナル事態ニ相遇スルモ本制度(天皇制)ノ維持確立ハ帝國存立ノ絶對的基盤」と断じ、「例ヘバ内大臣、樞密院ノ如」き「天皇制度ノ確立ヲ妨害スル斯ル組織乃至制度ノ徹底排除」を謳った。天皇の周辺でその意思を歪めるいわゆる君側の奸をなくせば良いとしたのである。

 同日、マッカーサーは幣原首相に、教育の自由主義化、人権確保などの5大改革を指令する。ようやく15日に治安維持法などが廃止された。

 12月8日、松本烝治憲法担当大臣が、「天皇ガ統治權ヲ總攬セラルヽト云フ大原則ハ、是ハ何等變更スル必要モナイ」などの憲法改正4原則を発表した。その上で46年1月4日に彼が作成したのが、明治憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」を「天皇ハ至尊ニシテ侵スベカラズ」とする有名な改憲案だった。マッカーサーは驚愕する。対日政策の最高決定機関、極東委員会の発足が2月26日に迫っていたためである。

 日本の民主化は世界にとって最難関の課題だった。それに現実に取り組む米国は、天皇制をふまえた間接統治を選択し、独自の対応をとってきたが、極東委員会発足後はこれも難しくなる。そこで極東委員会発足までに憲法の方向性を確定しなければならなかった。彼はGHQ民政局に憲法草案の作成を指示し、8日、松本案を拒否して、マッカーサー案を政府に渡すこととなる。

 これに基づいて、20日、幣原首相が枢密院で説明した。「極東委員会が日本の今回の憲法草案が突如発表されたことに対し不満の意を漏らしているようである。……これ等の状勢を考えると、今日このような草案が成立を見たことは、日本のためにまことに喜ぶべきことで、もし時期を失した場合にはわが皇室の御安泰の上からも極めて懼るべきものがあったように思われ危機一髪ともいうべきものであった」。22日、極東委員会発足の4日前、内閣はマッカーサー案の受け入れを決める。

 7月2日、極東委員会は「新日本憲法の基本諸原則」を全会一致で採択し、改めて「日本国民は、天皇制を廃止すべく、もしくはそれをより民主的な線にそって改革すべく、勧告されなければならない」と表明し、「もし日本国民が、天皇制を保持すべく決定するならば……(軍国主義が復活しないための)次の防衛が必要となる」として、皇室財産の国有化などを決めた。これは、5日の毎日新聞が「極東委員會・憲法原則 政策に支障あれば 共和政體に變更 現在は改正天皇制を黙認」と、トップで報じるなど、広く伝えられた。

 7月10日、ケーディスGHQ民政局課長は、「松本案では當司令部としては天皇を擁護し得ないとの結論に達した」と政府に説明したが、それでもなお政府は様々に抵抗する。ケーディスは「明にマ元帥が全幅の賛意を表明したところの新憲法草案の意味と現在議會に於て討議されてゐる憲法の有つ意味とが全くかけ離れたものになつてしまつてゐる。……司令部としても此の憲法を聯合諸國に對して辯護するのに非常に苦しい立場に置かれる」と言い続けなければならなかった。

 人類史を変えた異常な天皇制を残す以上、戦争放棄だけでは各国は納得しなかった。ましてや憲法案の後退は認められるはずもなく、 天皇制の廃止こそが将来の改憲の課題だった。言い方を変えれば、天皇制を残した日本が世界に負った最低限の義務が、憲法9条だったのである。

 さて、有識者会議の報告は、皇族数の確保策として、女性を「婚姻後も皇族の身分を保持する」、 「皇統に属する男系の男子」を養子とする、「皇統に属する男系の男子」を「直接皇族とする」の3つを挙げた。

 しかし、眞子さんの結婚が投げかけた問題の一つは、彼女が、参政権も、表現の自由も、職業選択の自由も、移動の自由もなく、結婚の自由も妨げられる皇族から逃れようとしたことだった。女性天皇が認められればこの機会は失われるのである。

 そもそも悠仁は皇族から逃れられない。女性と結婚して子供を作ることも義務づけられ、彼が性的少数者である場合には悲劇である。

 天皇制を論じることは今も命の危険を伴う。ここまでにしておく。