【進歩と改革2021年7月号】掲載


対中経済安保

 朝日が「経済安保 米中のはざまで」を連載し、さらに長期企画である「未完の最長政権」を再開し、「外交の安倍」を取り上げている。

 先月号で日本外交が相手国の人権侵害などを軽視して経済権益を優先させてきたこと、特に安倍政権が理念外交を唱えるようになるが、これは主に日本軍国主義が侵略した周辺諸国特に中国に向けられ、権益優先の姿勢が変わらないことを指摘した。

 中国は、2007年以来、日本にとって輸出入総額トップであり続けている。その中国をめぐる経済安保とは、21世紀以降の日本外交の裏の課題の衝突を意味する。つまり中国以外の国との間では人権などの理念よりも経済権益を優先させるが、中国に対しては安全保障すなわち特に領土紛争をめぐる軍事的な緊張を重視し、その観点から人権などの理念を掲げることの間の矛盾である。

 右派はこのことを早くから主張していた。例えば産経は、「インドの経済開発は、中国への一国集中リスクを回避するためにも重要」(2004年4月3日「主張」)、「アジアは中国と韓国だけではない。……東南、南西アジアや大洋州をも含む広い視野に立ったアジア外交が必要」(2005年10月25日)等と繰り返していた。皮肉を込めて言えば、朝日は15年以上遅れて産経の問題意識に追いついたことになる。

 これを政策として具体化したのが安倍政権が唱えた地球儀を俯瞰する外交であり、官僚としてこれを支えたのが谷内正太郎前国家安全保障局長だった。そしてこの体制が推進したのが集団的自衛権の行使を容認し、安保法制を作り上げることだった。安倍や谷内の視点から見れば、中国の脅威に対抗するために必要な措置だったが、安倍にとっては妥協も迫られた。パールハーバー訪問や韓国との慰安婦合意などがそれである。それは憲法解釈の変更や、保守かリベラルかを問わず米国が抱える日本右派に対する警戒などとのトレードオフの関係にあった。

 しかし安保法制成立後は、こうした谷内のバランス感覚は安倍周辺から遠ざけられる。そのような中で、特に対中、対ロ交渉で相手国に対して甘く対応したことを否定的に取り上げるのが「未完の最長政権」である。この点でも朝日は遅まきながら右派の主張に寄り添うと同時に、少なくともこの連載では谷内の姿勢を肯定的に捉えている。

 ここで安全保障をめぐる議論について整理してみよう。安全保障論は未だに確定した領域とは捉えられない面があり、多様な分野を横断する議論とされることもある一方で、国際関係論の一分野として捉えられることも多い。国際関係の視点から見ると、最も合理的で数値をもって議論できるのが軍事と経済であり、それを特に重視したのがこの安全保障論ということもできる。先の連載「経済安保」でも、政治家、日本貿易振興会、経団連などと並んで研究者としてインタヴューを受けているのは国際政治学者の佐橋亮・東京大准教授だが、その国際政治学の存在が深刻に疑われたことがある。

 1996年、北米の国際関係学会と日本国際政治学会の合同国際会議が開催された。この内容は後に本にまとめられるが、この本よりも、ホルスティ・ブリティッシュコロンビア大教授と、ストレンジ・ウォーリック大教授にインタヴューした記事が面白い(朝日96年10月8日夕刊)。ホルスティは、「20年後、国際政治学とか国際関係論という名前の学問があるかどうかわからない」と語り、ストレンジのインタヴューでは、「国際関係の研究」が合意の得られた名称すらなく、米国の国際政治学では新理論や分析手法が次々に登場しては消えていくことを指摘し、「国際関係の一般理論などは存在しない。これからもないだろう」という発言を紹介する。

 国際関係の理論について疑問を呈する指摘は古くからある。例えばジョゼフ・フランケルが20代後半で著し64年に出版された『国際関係論』は、「著述家や研究者たちのいずれの間にあっても、実体および方法について意見の一致はほとんど存しない」、「方法論上の選択は……個人の形成史、気分、ならびにこれと同種の人格的要因によって導かれた個人的選好の問題に過ぎないと考えられる」とまで言い切っていた。

 どのように戦争に勝つか、どのように植民地を支配するか、どうすれば外交交渉を有利に導けるか、このような議論は19世紀以前からあった。これが新たな視点から学問として成立するのは、第1次世界大戦後の米国においてである。その背景には、文明的だと思われていたヨーロッパがかつてない戦争の惨害に直面したことに加えて、ヨーロッパの戦争には関わらないはずだった米国も参戦したことがあった。米国の世界との関わり方、世界への見方、目指すべき世界のあり方などが問われたのである。この後、米国は国際的な問題に活発に関わり、国際連盟の創設、軍縮条約、常設司法裁判所の創設、不戦条約の締結などを主導する。その中で国際政治学が確立する。

 しかし、日本軍国主義やナチスがこのような努力を踏みにじり、ここから国際関係における理想主義と現実主義が芽吹き、こうした動きが第2次大戦後にさらに拡大する。この結果、学問的な装いを整えてはいても、国際的な議論は米国の政治状況に大きく影響されると同時に、傾聴に値しないような理屈が新理論として唱えられる面も続いてきた。

 しかし同時に、米国では自国外交を問い直す声が、良きにつけ悪しきにつけ強くあることも見過ごせない。自国外交に対する民主的で活発な議論と頻繁な政権交代が、フランケルやストレンジが批判する議論のいい加減さを和らげてきたと言い得よう。

 また、冷戦下のヨーロッパがソ連を含む全欧安全保障会議の創設を主導し、共通の安全保障を模索し、さらに地域統合を進めたことなどは、米国内の国際関係論議が持ちがちないい加減さに対する強烈な実践だった。国際関係の議論がいい加減な面を持ち、比較的合理的な議論が軍事と経済に集中するからこそ、自国外交へのチェックと自国がどこに向かおうとするのかが重要になる。

 右派は日本軍国主義の肯定を前提とした上で、論点を比較的合理的な議論が可能な安全保障に集中させてきた。逆に見れば、日本軍国主義を肯定する上で、国際関係の方法論のいい加減さが役立ってきた。これに対して朝日は安保法制などを厳しく批判してきたが、外交をチェックしないままで安直に「外交の安倍」を肯定してきた。加えて、今になって中国の脅威を問題にしている。日本国憲法にとって最も深刻な危機は、このような姿勢ではないか。