【進歩と改革2021年6月号】掲載


日本と中国の内政不干渉

 2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起きて以降、内政不干渉を掲げる中国が制裁に否定的であることが問題とされている。しかし日本の消極的姿勢については、言いよどむような論評が多い。朝日も、「日本はこれまで、経済制裁などの圧力より、対話による民主化促進を重んじてきた。いわゆる『建設的関与』策は、相手側も民主化の最終目標を共有していて初めて意味がある。しかし……国軍は……流血を避けるよう訴えた日本の懸念も聞き入 れなかった」(2月24日社説)と言う程度で、日本政府を厳しく追及する声は未だに大きいとは言えない。

 朝日が言う通り、日本は特に人権問題に関して内政不干渉を掲げてきた。国連でも「日本は人権状況の改善のために現実的な方法を重視しており、その筆頭は対話である。歴史、文化そして伝統の違いから、人権の概念は多様でる」(1998年、高村外相、E/CN.4/1998/SR.2, para.36)等と繰り返してきた。

 軍国主義時代の傷を引きずるために、かつて被害を与えた国に配慮せざるを得ないのならばやむを得ない面もある。しかし逆に、日本は戦時賠償を軽減させるために被害国に対して強硬な姿勢を貫いてきた。例えば、日本は1942年以来フィリピンを占領していたが、45年2月から1ヶ月間、首都マニラにおいてほとんど意味のない市街戦を展開した。この結果マニラは灰燼に帰し、フィリピン民間人だけでも10万人にのぼる犠牲者が生み出され た。これに対してフィリピンは、52年に日本が独立を回復したことを受けて80億ドルの賠償を請求するが、日本は拒否する。このためフィリピン議会は、サンフランシスコ対日平和条約の批准を拒否するに至った。

 しかし、日本軍が、連合軍のマニラ上陸を阻止するために意図的に行ったマニラ港への沈船や戦闘による沈船などを引き揚げなければ、マニラ復興は進まない。そこで、翌年には沈船引揚げに関する中間賠償協定が結ばれ、56年に、賠償5億5000万ドル、経済協力2億5000万ドルで、賠償協定および経済開発借款に関する交換公文に両国が署名した。日本は賠償金額を10分の1に値切ることに成功したのである。

 周知のように韓国に対してはさらに強硬で、51年に予備会談が始められるが、日本は責任を認めない姿勢を崩さず、65年の条約締結まで7次の会談を重ねた。この間に日本は植民地支配を正当化する発言を繰り返しては会談決裂に導き、その再開には米国の度重なる仲介を要した。

 こうした姿勢は、日本が過去の責任を問われない場合でも変らない。1960―70年代、軍事政権下のチリやアルゼンチンなどで大量の失踪者が発生し、国連でも問題になった。先進国がこれを批判する中で、79年、日本は棄権をする。

 これは外務省で中南米局がアメリカ局から独立した時期にあたるが、第2代中南米局長を務めた枝村純郎は、「軍事的な独裁政権であっても、好んで事を構えることをしない」、「(貧富の差の解消などに)進むよう誘導し、力を貸すことこそが、日本のとるべき政策」と説明している。当時の米国は人権外交を掲げたカーター政権だったが、枝村は「そこまでアメリカに付き合う必要はない」と断じ、反共を掲げて81年に成立するレーガン政権が軍事独裁 政権であっても反共であれば積極的に支持したことを、「アメリカの方がわが方の『一貫性』の理念に同調してきてしまった」(枝村純郎『外交交渉回想』、吉川弘文館、2016)と言い放った。日本は対米追従ではないばかりか悪名高いレーガンの中南米政策の先取りをしていた。

 さらに、韓国の全斗煥大統領が民主化運動を弾圧した際には、中曽根首相がいち早く元大本営参謀の瀬島龍三に親書を託すなど、積極的に接近し、90年にミャンマーで行われた選挙で野党が勝利したことを軍事政権が認めず、スーチー氏らを自宅軟禁した際には、国連総会でミャンマー問題の先送りを主導した。軍事独裁政権への親和性が高い、それが日本外交である。ただしそれらの政権が民主化し、日本の戦争責任を問うようになると、強く批判する。

 北朝鮮による拉致問題が発覚すると大きな政治問題とするが、単純に日本人に害が及んだために重視したとも言えない。日本政府が中南米の人権侵害に理解を示した78年から92年にも、中南米の現地法人の日本人社長が誘拐・殺害される事件が複数発生していたのである。

 何よりも経済関係を優先し、次に日本近代の正当化に繋がること、これが日本が人権侵害を重視するか否かを分ける。そしてこのような姿勢が拉致問題をも歪める。

 かつて日本が中国に対して警戒していたのは革命の輸出、つまり他国への干渉だった。国交正常化の前年である71年にも、警察庁警務局教養課が発行する『教養旬報』が「国際共産主義勢力としての中共は……親中共系団体等に対し、革命の輸出的言動をもって反政府、反軍国主義闘争などの革命的闘争を支援・せん動していることなど、治安的にも看過できない」と論じていることが、社会党の山崎昇参議院議員により追及されている(予算委員会  71年11月9日)。中国の内政不干渉は日本政府が望むものでもあった。

 右派の産経が「ミャンマーが中国の影響下に入ることは望ましくない」、「日本の東南アジア外交は、人権問題などで欧米諸国ほど厳格な姿勢をとってこなかった。問題のある国を突き放して中国に取り込まれてはいけないとの思惑があった」(2月2日主張)と政府を弁護するように、日本の人権侵害容認姿勢は、かつてはソ連の脅威、今は中国の脅威を強調することで正当化される。

 対中警戒は右派のみならず広く共有されている。しかし、日本と中国の政治は方向性がよく似ており、ともに国家主義的かつ権威主義的な指向が強い。こうした状況は、安倍政権と菅政権において次々と政策化されてきたが、国民の関心が弱まる外交では、以前からより露骨に表面化していた。日本は世界で非民主的かつ大国主義的に振る舞ってきた。中国はその後を追っている。

 世論の無関心の背景にあるのが、両国に共通する根強い被害者意識である。奇妙にも、人類史を変えた異常な侵略国家だった日本と、世界最大の人口を誇り、世界最大の経済力を持つことが予想される中国が、ともに被害者意識により自国の強圧的な姿勢を正当化している。その陰でミャンマー市民の命が失われている。

 巨大な力を持つからこそ、中国は当然に問われなければならない。しかし、日本外交とそれを容認してきた世論も、同様に問われている。