【進歩と改革2021年2月号】掲載


自民党の右傾化と社民党の退潮

 21世紀以降の日本社会の右傾化を代表するものとして、1997年に結成された日本会議が問題にされることが多い。そしてその成立の契機として指摘されるのが、90年代の政権交代である。 つまり、93年に自民党政権が倒れて細川内閣が成立したこと、政権奪還のために自民党が社会党や新党さきがけと連立して村山内閣を成立させたことに対して、右派が強めた危機感である。この後 、自民党はかつて持っていた多様性を失い、右派が支配的となる。一方、社会党はこの連立を契機に力を失い、村山内閣後に改称した社民党も行方が揺らいでいる。

 結果的に自社さ連立は保守党の右傾化と革新党の退潮を招いたことになるが、ここで少なくとも2つの点を検討すべきである。第1に、それまでは保守主流派にはなりえなかった右派が力を拡大した背景、 第2に、自社さ連立政権の成果とそれを十分に継承し得なかった経緯である。

 第1の点に関して、保守系マスメディアがこの時期に変貌することを指摘したい。読売が改憲試案を発表し、それまでにも増して露骨に政治主張を展開し始めるのは94年だった。その後も政治改革の提言を繰り返し、 ついに、橋本内閣が設置した行革会議では渡辺恒雄社長自らが委員を務めて、その実現を図るに至る。

 産経もこの時期に路線を変更する。60年より保守化を強めていた産経(当時は「サンケイ」)は、70年に田中角栄自民党幹事長が党支部長などに講読を呼びかけ、80年代には革新自治体を標的にした行革キャンペーンを行い、 自民党候補者と連携するなど、御用新聞化を露骨に進めていた。しかし、81年に日本会議の前身である日本を守る国民会議が結成され、これが編集した『新編日本史』が86年に検定に合格した際には、距離を置いていた。産経は、「 過去の日中関係の歴史を正視し、それに学ぶことが不可欠」で、南京事件の「犠牲者は30万人とも40万人ともいわれ、いまだその実数がつかみえない」と記す『蒋介石秘録』を85年に再刊し、箱根彫刻の森美術館に中正堂と称する 一室を設けて蒋介石を顕彰するほどだった。

 その産経が自由主義史観と称する歴史修正主義を主導し、教科書出版に乗り出すのが90年代である。「新しい教科書をつくる会」が結成されたのは97年1月だが、産経自身がその結成の「ひとつのきっかけは産経新聞の企 画記事だった」(ウェーブ産経事務局編『産経が変えた風』)と語るように、この動きを主導したのは産経だった。

 同年5月、日本を守る国民会議などが日本会議に衣替えをする。その後、ネット社会が拡大し、いわゆるネット右翼と呼ばれる動きが生まれるが、保守系メディアはそれに先だって右翼化していた。

 第2の点に関しては多くの問題があるが、ここでは特に行革問題を指摘したい。読売が力を入れたこの問題に取り組んだ橋本内閣は、村山内閣に続く自社さ連立政権であり、読売と社民党が結びつ く問題であると同時に、これが第2次大戦後の民主化以来の大規模なもので、それまでの日本政治を見直し、21世紀に向けて議論する場だったためである。

 この行革により、それまで官庁の中の官庁とも呼ばれた大蔵省もその名を変え、戦後の民主化の中で生まれた労働省や技術官僚の砦などとも言われた建設省も姿を消すが、名称が変わらなかった省が3つあ った。農水、法務、外務である。特に、法務と外務に関しては、行革会議のみならず国会や報道においても議論自体がほとんどなかった。第2次大戦後の日本外交と司法のあり方を含めた法務について、日本社会は関心 を寄せなかったことになる。90年代に、湾岸戦争を契機に自衛隊の海外派遣が重要な政治問題となり、しかも改憲を主張する読売がその関連で行革を唱えている以上、これらの政策の再検討が不可欠だったのだが。

 この2つの政策の交わりに存在するのが在日外国人問題である。特に在日朝鮮・韓国人の存在は戦後日本社会の矛盾を象徴しており、社会党・社民党もこの問題を重視していたはずだった。その中でこの2つの 官庁が不問に付されたことは、社民党のみならず、日本社会全体が在日に関心を寄せていなかったことを示すと言わざるを得ない。行革会議の発足に先立って九〇年に日系ブラジル人の受け入れを始めていたが、それはそれまでの在日政策の反省の上に立った見直しではなく、バブル経済による人手不足に対応するためのものだったのだから、なおさらだった。

 このような中で、06年には在日特権を許さない市民の会が結成され、支持を集め始める。99年に石原慎太郎が都知事となり、08年に橋下徹が大阪府知事に、08年には河村たかしが名古屋市長になり、3大都市 の首長を右派政治家が占める中でのことである。そして日本外交は、拉致問題以降、良くも悪くもアジア諸国に見せていた配慮を捨ててタカ派化を進め、イラク戦争を支持し、トランプ政権に露骨にすり寄る。

 さて、冷戦の終焉を受けて90年代に米国は人口が増大し、社会自体のグローバル化が進んだ。また九三年のEU発足により、ヨーロッパ社会全体の開放度が進んだ。欧米で排他主義が表面化するのはその後の ことである。しかし、社会が開かれ、多様化したからこそそれに対する反発として民族主義が台頭するのは自然である。そしてそれにもかかわらず(同時にそれだからこそ)、ヨーロッパではシリア難民の惨状が伝えられる ことで受け入れの拡大を求める声が強まり、米国ではメキシコとの国境の状況が伝えられることで国境を厳しく閉ざそうとするトランプの政策への反発も広がる。

 ところが日本では、50年ぶりの大規模な行政改革においても十分な議論もされず、開かれた社会にはほど遠い。欧米の極右が、移民を厳しく制限し、難民の受け入れも認めない日本を讃えることも珍しくない。しかも、 在日朝鮮・韓国人の数が減少していることに加えて、バブル崩壊とアジア金融危機の中で在日朝鮮人系の金融機関の破綻や、拉致問題の発覚後の状況の中で、特に在日朝鮮人社会の発言力が低下している。日系ブラジル人も日本政府が帰国を推進したために、居住者数が減少した。また技能実習生が多くを占めるベトナム人は、社会から隔絶されている場合が多い。難民の受け入れが進んだり、不法移民増大の結果、反動として民族主義が高まるのならば理解できるが、むしろ逆である。

 もちろん社会党・社民党だけが問題なのではない。なぜ日本社会は問わなかったのか、今も問わないのか、日本のリベラル全体の問題として考えなければならないだろう。