【進歩と改革2021年11月号】掲載


中央アジアのイスラム原理主義と米中

 はじめに

 8月30日、米軍がアフガニスタン撤退を完了した。これに対して右派の読売は「タリバン統治が復活した場合、テロ組織や過激派が入り込み、アフガンが再び『テロの温床』と化す危険が大きい」、「中国とロシアは、タリバンに接近している。中露や中央アジアの国々で構成する上海協力機構は、7月中旬の外相会議で、『アフガン人主導の対話の重要性』を強調し、米国の関与を排除するような姿勢を示した」、「中露はタリバンに対する影響力を米国との覇権争いの道具にするのではなく、地域の安定のために使わなければならない」(8月3日社説)等と主張する一方で、「アル・カイーダは弱体化し、アフガンを拠点とする米欧への大規模テロは、この20年間抑止できている」とタリバン復活や中国の影響力拡大を重視するが、米国の姿勢に問題があったとは明言せず、世界でも最も米国の軍事行動を支持してきた自国の責任にも、当然言及しない。

 これに対して朝日は、「米国の責任は重大である。20年間、アフガン政府の後ろ盾として影響力をふるいながら、このような無秩序な形で米軍の撤退を急いだのは、大国のご都合主義以外の何物でもない」(8月17日社説)、「米軍に対し、日本は約八年間、インド洋に海上自衛隊を派遣し給油支援を行った。長い戦争の帰結としての今回の混乱を、ひとごとにしてはいけない}(8月25日社説)等と主張する。

 しかし両者とも重要な論点を見落としがちである。まず何よりも重視すべきはこの地域の内発的な動きだろう。イスラム原理主義の動きが強まる背景、そしてそれが人々からそれなりの支持を得るからこそ支配圏を拡大する状況を無視しては、問題の解決には繋がらない。それこそが、過去40年以上にわたって国際社会がアフガニスタンを無視する一方で、恣意的に介入してきたことの教訓である。その上で、この地域に改革へ向けた有力な内発的な動きがあったのならば、それを支援することこそが国際社会の役割である。

 次いで、中国の動きは本当に懸念すべきなのかどうか、である。実は、対話や人道を口にはするが、実際には軍事行動に積極的な日本よりも、中国の方がこの地域の安定に貢献している面があることも否定できない。日本では中国がその経済力にものを言わせて中小国を操っているかのように論じられがちだが、少なくともイラク戦争において世界第2の経済力を背景に軍事力行使への支持を開発途上国に迫っていた日本に比べれば、現在の中国の方が「平和的」で中小国の状況に耳を傾ける姿勢が強い。

 そこで、ここではこの地域の内発的な動きの例としてイランの改革派の動きとその挫折と中国によるこの地域における協力の動きを、観察したい。

 1 アフガニスタンとイラン

 アフガニスタンはパシュトーン人が多数を形成し、スンナ派が人口の九割近くを占め、経済的な状況は良いとはいえない。一方イランはこの地域の大国で、いわゆるアラブ諸国とは異なりペルシャ語を用い、人口の約9割がシーア派である。しかし隣国として関係が深く、アフガニスタンで広く通用するダリー語はペルシャ語と近い。アフガニスタンが10倍以上の経済規模を持つイランから受ける影響は小さくない。

 1970年代までは両国とも王制が敷かれ、いわゆる上からの近代化が目指されていたが、アフガニスタンでは73年にクーデターにより共和制となり、国境を接するソ連に接近した。これに対してイスラム主義勢力の反発が強まる。一方、やはり上からの近代化が推進されると同時に世俗化が進められてきたイランでは、王の強健と急進的な近代化に対する反発が強まると同時にイスラム主義の動きが高まり、79年、米国などが支援してきたパーレヴィ国王が亡命し、国民投票によりイスラム共和国樹立が宣言された。政権が不安定化していたアフガニスタンにおいてもイスラム主義の動きが強まり、ソ連に軍事支援を求める。

 しかしソ連のアフガニスタン侵攻は泥沼化し、ソ連側に一万四千人以上の戦死者をもたらし、経済的社会的な混乱も招き、ソ連崩壊の原因の一つにもなる。アフガニスタン側がその数倍の犠牲者を出したことは言うまでもない。この介入は、81年に成立し、ソ連を敵視した米国のレーガン政権が、カンボジア、ニカラグア、南部アフリカなどともに最重要視した紛争の一つとなった。しかし冷戦の終焉とソ連の崩壊、そしてレーガン的な介入からの転換を図るクリントン政権の下で、この地域に対する米国の関心は低下する。このような中で、アフガニスタンではイスラム主義の勢力拡大が続き、96年9月にはタリバンがアフガニスタン・イスラム首長国の樹立を宣言するに至る。

 2001年、米国ではブッシュ政権が発足する。冷戦の中で積極的に地域紛争に介入したレーガン政権とは異なり、原理主義的な新保守主義の色彩を強めた上でレーガン的な姿勢に回帰し、クリントンからの姿勢の転換を目指したブッシュは、先進国間の国際合意までをも軽視するようになった。ましてや開発途上国に対しては無視と言っても良い姿勢をとるが、これが9・11テロ事件の遠因の一つとなったと言えよう。9・11後、ブッシュ政権はアフガニスタンへの爆撃を始める。

 一方、79年のイスラム革命の際にテヘランの米国大使館が若者らに占拠され、大使館員が監禁されたことから、イランと米国の関係悪化は決定的なものとなる。それまではソ連に接近するアフガニスタンやインドとの対抗上も、米国はパーレヴィ国王を積極的に支援していたが、それが逆転する。この大使館員人質事件は、日朝関係にとっての拉致問題のように象徴的な出来事となった。

 さらにイランに東接するイラクでは79年にサダム・フセインが大統領に就いたが、様々な利権や領土的野心などに加えてイスラム主義の動きに危機感を抱き、イランに武力攻撃を始める。イラン・イラク戦争であり、石油による経済力を背景に王制をとる湾岸諸国や米国はイラクを支援する。八八年に戦争が終わるが、90年、イラクは経済的な苦境などからクウェートに侵攻し、国連安保理の容認の下でいわゆる多国籍軍がイラクを攻撃する湾岸戦争を招くことになる。

 このように見ると、強権的な王制の下での経済発展と社会の世俗化の矛盾が、伝統社会に根ざした民主化=宗教化を招いている面があることが分かる。ヨーロッパ的な視点から見れば、近代化とは民主化、脱(非)宗教化であり、それと相まって進展するのが産業革命=資本主義化だが、そうなっていないのである。そして政府から見捨てられた人々に、イスラム主義勢力が、たとえ不十分であってもクアルーンを読むだけの教育や多少ではあっても医療等のサービスを提供するのであれば、人々からそれなりの支持を得るのは無理がない。さらにここにパレスチナ問題の矛盾が覆い被さり、西欧的近代化に対する疑いがさらに深まることになる。

 2 イラン改革派の対等と挫折

 タリバンがアフガニスタンを支配した頃、イランではイスラム原理主義への改革の動きが強まり、97年5月、改革派のハタミが大統領に就き、米国との関係改善に動き始める。98年1月、イラン系イギリス人で、現在はCNNの名物アンカーであるクリスティアン・アマンプールがハタミにインタビューをしたが、ここでハタミは「慈しみ深く情け深い神の名の下で、最初に、特にイエス・キリストに従う全ての自由で気高い女性、男性に祝福を」と述べて話を始め、繰り返し「偉大なアメリカ人民への尊敬」と「アメリカ文明は尊敬に値する」ことを語った。

 アマンプールは、「平均的なアメリカ人にとってイランが過去20年間に発してきたメッセージは、人質、アメリカに死を、アメリカ国旗を燃やす、イスラムがアメリカと西側に対して宣戦布告をするがごときもの」と述べて、「全てのアメリカ人の心の中にある」大使館員人質事件について尋ねたが、ハタミは「当時の人々の感情は米国の政策により極めてひどく傷つけられており、革命の熱狂的な興奮の中で、平常の規範に従えば全面的にあり得ず、判断できないことが起きた」、「今日、私たちの新しい社会は制度化され、大衆から選ばれた力のある政府であり、関心や不安を型破りな方法で表明する必要はない。論理を重んじ、特に他者の主張をに耳を傾けるのであれば、会談、討論、対話以外は不要だと信じる」と答えた。

 アマンプールの、保守派の抵抗にどう対応するかとの質問には、「民主的な政府は反対派を受け入れることを意味する。反対が全くない社会はあり得ない」と答え、テロに関しては「対立には関わらない罪の内男女を殺すあらゆる行動はテロであり、非難されなければならない」と述べた。また「イランの偉大な文明はギリシャの都市国家やローマ帝国と同時」だったことなどにも触れた。タリバンが権力を握った直後だけに、これらの意味ははっきりしていた。

 さらにハタミは、国連総会本会議で「来世紀、政治力の基本は、文明間の対話において外的に明示される共感と正義であることを希望しよう」と演説し、21世紀最初の年を「文明間の対話の国連年」とすることを提唱し、正式な総会の議題として提案した。本誌07年4月号でこの問題を取り上げたので詳細はそちらに譲り、簡単にまとめよう。

 ハタミの提案に対しては次々と支持が表明され、決議は無投票で採択され、01年を「文明間の対話の国連年」とすることが決められた。この背景の一つには、当時の米国で、保守派国際政治学者であるハンティントン・ハーヴァード大学教授が、資本主義と社会主義の間のイデオロギーの対立は終わり、文明間の衝突が国際紛争の主要な原因となるという「文明の衝突」を唱えて注目されていたことがあった。彼はこのように題する論文を93年に発表し、96年に単行本にまとめていた。

 各国はハンティントンを批判した。エジプトは、「このような危険な議論や破壊的な理論」と述べ、オーストリアはEUを代表して「国際社会はこのような理屈が自己実現的な予言になることを許してはならない」と指摘し、マレーシアは彼を名指しした上で、「そのような起こりそうな衝突を観察する代わりに、国際社会は豊かな文明の交差点を生み出す努力をすべき」と批判した。

 ハタミは99年にはイタリアとバチカンを訪問し、さらにユネスコ総会で演説するなど、積極的に活動を続けた。これに対してイランの保守派は反発を強めたが、99年の地方議会選挙は改革派が勝利し、2000年の国会選挙も改革派が多数を占め、01年の大統領選挙でもハタミが大差をつけて再選された。

 一方、米国では保守派が力を強め、九六年の中間選挙で大勝し、議会において保守革命とも呼ばれる動きを進めていた。80年代は、「ソ連の脅威」が保守派の目を国外に向けていたが、冷戦が終わったことにより保守派が本来持っていた内向きの姿勢が表面化し、同時に原理主義化していたのである。これはタリバンが権力を握った年でもあるが、中央アジアにおける原理主義を象徴する年と米国における保守原理主義の高まりをはっきりと刻んだ年が一致するのは、興味深い。

 米国の保守化は、ブッシュ・ジュニアを大統領に押し上げた。「文明間の対話国連年」は異なる文明との対話どころか、同じヨーロッパ系先進国との間の合意すら理解しない政権の誕生で始まった。米国国内の政権支持は低下したが、ここで9・11が起きる。

 翌9月12日、国連総会が開会した。本来9月11日に開会されるはずだったが、9・11のために延期されたのである。9・11テロの標的となった世界貿易センタービルと国連本部は五qほどしか離れていない。世界の首脳が集う総会の開会を控えた国連本部はマンハッタン島の中でも最も政治的な場所であり、テロの背景も判然としない状況では国連本部もその目標となっている危険性もあり、騒然とする中での開会だった。このような中で、安保理はアフガニスタンのタリバン政権に対する米国の「自衛権」の行使を認め、10月7日、米国はアフガニスタン爆撃を始め、12月22日には暫定政権が発足した。

 02年1月29日、ブッシュは一般教書演説で北朝鮮、イラン、イラクの3カ国の名を挙げて、これらを「悪の枢軸」と呼んだ。日本軍国主義とナチスの同盟の名とレーガンがソ連を悪の帝国と呼んだことを併せた言葉、つまり米国にとって最も重い意味を持つ言葉だった。ハタミが努力を続けた対米関係の修復と文明間の対話を一方的に否定した瞬間だった。

 隣国アフガニスタンが爆撃され、米国の影響下に置かれる中で、自国を悪の枢軸と呼ばれたことで、イランでは米国に対する反発が強まり、保守派が勢いづく。04年の総選挙では保守派が握る護憲評議会が改革派候補者を不適格とし、保守派が圧勝し、05年の大統領選挙でも保守派が選挙を制した。イランで生まれた改革の機運を摘み、保守派を後押ししたのは、原理主義化する米国の保守派だった。

 3 中国の関与

 2001年6月15日、中国、カザフスタン、キルギス、ロシア、タジキスタンの5カ国が上海協力機構を設立する共同宣言を発表した。宣言第2節によれば、「加盟国間の相互の信頼、友好及び善隣関係の強化、政治、貿易、経済、科学技術、文化、教育、エネルギー、運輸、環境及びその他の分野における加盟国間の効果的協力の推進、この地域における平和、安全及び安定の維持及び保証のための共同努力、及び、新たな、民主的、公正及び理性的な国際政治経済秩序の確立」を目的とする包括的な地域機構とされた。

 これは、宣言第六節が明記するように、当初は中ロ間の国境協定に基づく軍事面の信頼醸成措置を基礎とし、03年には初のテロ対策共同訓練を、05年には初の中ロによる軍事演習を行った。さらに05年にはインド、パキスタン、イランがオブザーバーとなり、15年には印パ両国が正式に加盟した。そして一八年には印パがそろって合同演習に参加した。建国以来対立を続けた両国が参加した初の軍事演習だった。

 軍事演習が敵対する相手国の近隣で行われる場合は、相手国にとってはそれ自体が脅威であり、挑発である。相手国に自陣営の軍事力を見せつけることで軍事的抑止を図ること自体が演習の目的だと言っても良い。北朝鮮に対する米韓合同演習はこの典型であり、北朝鮮がこの演習を非難することは当然である。それがこの演習の目的なのであり、米韓の立場から見れば、北朝鮮が非難しないような演習であれば行う意味がないのだから。

 これに対して、域内の国が域内の国を仮想敵としないで演習を行う場合は、意味が大きく異なる。冷戦終結に先立って1987年にドイツとフランスが設置した合同旅団はこの一例であり、特にドイツ軍がフランスに駐留することは、ナポレオン戦争、普仏戦争、第1、2次世界大戦等で戦ってきた両国の歴史的な和解と協力を象徴するものとされる。

 そして、中印パ3カ国は領土紛争を抱え、特に印パ間では大規模な戦争が続き、印中間も軍事衝突を経験してきた。2016年にも10名以上の死者を出す武力衝突が印パ間で起こり、17年には中印間で軍の衝突が起こるなど、今も緊張が続く。それらの国が合同軍事演習を行うことは、域内の信頼醸成に大きな意味を持つ。日本では2007年に安倍首相の提唱で発足した日米豪印によるクアッドが対中包囲網として大きく取り上げられがちである。しかし、特にインドに関してはそのように単純な説明は適切ではない。

 9・11や03年のイラク戦争さらにその後の中央アジアから中東における混乱の中で、上海協力機構は加盟国と役割を拡大する。しかし05年に米国が行ったオブザーバー申請は拒否された。それは反米的ではあるが、地域機関としての性格をはっきりさせているともいえる。なお、イランは21年に正式加盟を果たし、12年にはアフガニスタンがオブザーバー加盟した。

 ここに一帯一路構想が重なり、さらにその一環として、中国とヨーロッパを結ぶ鉄道輸送の強化も進む。11年に始まった中欧間の鉄道輸送プロジェクト「中欧班列」は新型コロナウイルスの下であっても20年には1万2400便に達しているが、沿線国をより巻き込む形で発展すれば、少なからぬ意味を持つ。何より、この地域の安定は米国以上に新疆ウイグルの問題を抱える中国にとって重要である。本誌21年3月号でも触れたように、ウイグル族の問題はイスラム原理主義の台頭の中で深刻化しているのだから。

 日本のこの地域への関心は、民間の動き、例えば殺された中村哲氏の貢献などではなく、政府としての行動に限れば石油と軍事行動に集中する。一方、9・11で揺れる国連総会において、文明間の対話問題で日本は、「文明間の対話国連年の1月、日本政府は当時の河野洋平外務大臣の主導の下で、文明間の対話を推進する努力の一環として日本とイスラム諸国の間の相互理解をさらに強化するための新たなイニシアティヴを始めた」と演説した。河野はその在任期間中、軍縮白書を発行するなど、それまでの外相にはない試みを残した。自民党が極右化する前のことである。自民党新総裁が、総選挙で勝つにせよ野に下るにせよ、このような試みをするのならば、多少は世界に向けて語るべき言葉を持つかもしれない。