【進歩と改革2020年8月号】掲載


ボルトンとトランプ

 トランプ政権で安全保障担当大統領補佐官を務めたボルトンが、トランプ外交の実態を暴露する回想録を出版し話題を集めている。ボルトンとトランプはアメリカ保守派の変容を象徴しているが、日本ではそのような政治状況が十分にふまえられない一方で、福音派などの役割が強調されがちであるように思われる。

 戦後の米国政治は、トルーマンが冷戦に踏み込み、ジョンソンがベトナム戦争をエスカレートさせたように、むしろ民主党政権が軍事化に関わる傾向が強かった。一方共和党政権は、1930年代まで強く平和主義を掲げていた古い世代に属したアイゼンハワー、冷戦を意識しながらも理念の強調よりも戦略的な解決姿勢を強く示したニクソンのように、むしろ妥協的な姿勢を示した。しかし70年代末、緊張緩和とカーターの融和的な姿勢がソ連の増長を招いたと認識され、内政においては保守的な勢力が対外強硬派と結びつき、新保守派(ネオコン)が構成され、レーガン政権の成立をもたらした。ここで宗教右派が目立ったことから注目されたが、新保守派はむしろ宗教右派とは一線を画すことが多い。

 法律家だったボルトンも、レーガン政権の成立と同時に国際開発庁(USAID)法務や検事総長補などに就き、89年、ブッシュ(父)政権において国際機関担当国務次官補となり、外交関係のキャリアを深めた。レーガンは国連そのものを批判し、安保理で拒否権を乱発し、UNESCOを脱退するなど、反国連姿勢を露わにしたが、ブッシュ政権期には、冷戦の終焉により米国が国連を利用できる余地が生まれ、特に90年のイラクのクェート侵略時には、米国の軍事行動を認める国連の名目が必要だった。ボルトンはこの中で、国連を動かすことに成功する。

 民主党のクリントン政権が成立すると、政治任命職だったボルトンも政府を離れる。そして、クリントンが名目のみの国連利用から実質的な国際協調に転じたことを強く批判し、クリントンが積極的に支持した国際刑事裁判所創設には激しい批判を向けた。国際協調に基づく国際機関の強化は、ボルトンらにとっては米国を拘束する以外のなにものでもなかった。クリントン政権下で対外政策を重視する新保守派が力を増した背景であり、2000年の大統領選挙において、環境問題を掲げる民主党のゴアに対して環境問題や国際刑事裁判所などに反対するブッシュ(子)が勝利した要因の一つとなった。

 ブッシュ(父)政権において国務次官補だったボルトンは、ブッシュ(子)政権で国務次官となり、イラク戦争を推進した。さらに05年3月、ブッシュはボルトンを国連大使に指名するが、このような経緯があるからこそリベラルはこの指名に強く反対した。国連大使の任命には上院の承認が必要となるが、両院とも共和党が多数を制する中で、民主党は議事の遅延で対抗した。審議の打ち切りには100議席中60票が必要となることを利用して、審議の継続を決めたのである。民主党の打ち切り反対は40票だったが、共和党と独立派からも一人づつ反対を投じて、審議の継続が決まった。ヒラリー・クリントンも、その年の1月に上院議員になったばかりのオバマも、そしてバイデンも当然反対した。結局ブッシュは、上院休会中には承認を得ずとも任命できる休会任命制を利用して、8月、ボルトンを国連大使に任命した。しかし06年の中間選挙で上下院とも民主党が多数を獲得し、指名の可能性がなくなったことから、12月に大使を退いた。

 イラク戦争の泥沼化を受けて、初の黒人系大統領オバマが誕生する。保守派も反新保守派に触れ、対外政策への関心を失い、原理主義的な草の根保守派、ティー・パーティー運動が台頭する。その生みの親とも言われ、原理主義的なリバタリアンとして知られるロン・ポールは、共和党に所属しながら、米国の対外的な軍事活動を批判した。彼の言を借りれば、「他国に比べて、合衆国の軍事支出がばかばかしいほどに巨額であることを、どれだけの人が知っているのか。2010年の『ストックホルム国際平和研究所年鑑』によれば2019年の世界の軍事支出は1兆5310億ドルだった。その46・5%が合衆国の支出なのである!」「大半のアメリカ人は、他の国が合衆国を脅威だと信じていることを想像すら出来ない。今でも、我が政府は、他の政府を打倒するために遠く離れた土地へ出かけ、軍を駐留させ、人々の上に爆弾を落とす唯一の政府なのである。合衆国は人々に対して原爆を通過した唯一の国である。それでも我々は世界の多くの人々が合衆国を脅威と見なしていることに驚くのだろうか。多くの人々はオバマ政権がこの方向性を変え、侵略と愛国法の乱用を和らげるだろうと期待したが、オバマはその拡大を支持した」(Ron Paul “Liberty Defined”, 2011, pp.256-257)。

 ポールは、88年の大統領選では、レーガンが軍拡などにより財政赤字を拡大させたことに反対して、自由主義者党の候補となった。その後は共和党候補となることを目指したが、新保守派への批判が強まった08年には有力な候補となり、12年も190票を得た。ただし、理念が勝るポールはあくまでも一匹狼のような存在に留まり、大衆を扇動して大統領選を制するまでには至らなかった。 これに成功したのがトランプだった。彼はあくまでも票を獲得するための手段としてティー・パーティーなどを利用しただけで、理念は十分に共有していないにせよ、米国社会の変化を敏感に察知したのである。 そうである以上、トランプとボルトンが相容れないのは当然だった。ただし、ティー・パーティーなどにもトランプの周辺にも十分な対外政策はなく、人材に欠ける。このため、軍や新保守派から安全保障担当補佐官を選ばざるを得ないが、方向性が異なる以上、軋轢が表面化することになる。頻繁な辞任の背景である。

 ボルトンに関して日本で問題にしなければならないのは、日本外交が彼の行動を強く支えてきたことである。日本を問い直さずにボルトンを話題にしても意味が半減する。またポールの主張が日本左派と重なることも重要である。トランプについて、山下芳生日本共産党副委員長は、在日米軍基地の解消について「トランプ氏の言っている方向と意図は違うが、一致する点がないわけじゃない」と述べたが、意図は異なっても結局は同じ結論に至っていることを日本左派全体が検証すべきだろう。さもなければ、今年1月から朝日新聞が連載している「日米安保の現在地」のように混迷を深めるだけで、むしろ改憲派を助けるだけである。