【進歩と改革2020年5月号】掲載


国連機関事務局長の選挙

 3月4日、世界知的所有権機関(WIPO)調整委員会が次期事務局長の選挙を行い、シンガポール特許庁長官のダレン・タンが選ばれた。次期事務局長には当初は中国の王彬穎が有力と見られていたが、これに米国が強く反発し、タンを対抗馬として支持した結果だった。5月に開催される総会で正式に選出される。 右派メディアはこれに大きく反応し、読売は「国連の機関が、中国の権益拡大に悪用されるのではないか。そんな警戒感が主要国の間で広がっていることの表れ」「国連の15専門機関のうち、現在4機関のトップを中国出身者が占める。こうした組織では中国の意向が優先される事例が目立つ。」「世界保健機関(WHO)…の現事務局長は、新型コロナウイルス対応が中国寄りだと批判されている」(3月14日社説)とし、産経は「国際規範やルールを守らない国の出身者がルール作りを担う組織のトップに就く―。危惧された事態は避けられた」(3月12日主張)とし、「WHO事務局長の更迭」(2月1日)までをも求めていた。

 国連専門機関の中には19世紀に創設され、1945年の国連創設から数年の間に専門機関となった万国郵便連合や国際電気通信連合、第1次世界大戦後の国際連盟創設と共に作られた国際労働機関もある。一方、一九四五年の国連創設に前後して創設され、専門機関となった国連科学教育文化機関やWHOなどは、日本軍国主義やナチスの経験をふまえて、経済社会分野を含めて世界のあり方を体系化しようとした第二次大戦後の時代精神の表れだった。加えて、社会のあり方の変化によってその分野の重要性が顕在化し、国際機関が求められ、国連体系に組み込まれた機関もある。WIPOはその一つで、74年に専門機関となった。 専門機関としてのWIPOの初代事務局長は、専門機関となる前年にこの地位に就いた米国のボクシュで、任期六年のこの職を4期24年間、97年まで務めた。 しかしその後は波乱が続く。2代目のスーダンのイドリスは年齢詐称が問題とされ、2期目の任期を1年残して2008年に辞任した。これを受けてオーストラリアのガリが一票差で選出されたが、2期目に事務局の運営や北朝鮮やイランへの制裁品移送が批判を集めた。今回の選挙はこれを受けてのものだった。

 イドリスやガリの資質に問題があったにしても、二代に渡って事務局長が批判された原因はそればかりではない。最大の問題は、80年代にコンピューターの急速な個人化が進み、さらに、90年代にインターネットが一般化したために知的所有権がその意味を大きく変えたことである。重要性を増すからこそ、その問題を扱う事務局のあり方も政治的争点となるのである。コンテンツの重要さや、グーグルやアマゾンなどの巨大ネット企業が、膨大な情報を抱えて支配的な力を持つことが問題になっている以上、当然だった。

 このような中で、10か国の政府から推薦された10人が候補者に名乗りを上げる乱戦状態となったが、このうちナイジェリア、日本、アルゼンチン、エストニアが事前に、カザフスタンが投票に先立って、辞退した。日本は、19年10月に特許庁出身の夏目健一郎を候補とすることを公表していたが、乱立により中国が有利になることを懸念する米国に配慮したのである。さらに、最初の投票で最下位となったペルーに加えて、米国の働きかけでコロンビアとガーナが辞退した。これによりシンガポールと中国の決戦投票となり、55対28でタンが勝利した。 これを受けて米国のポンペオ国務長官は声明を発し、米国の経営者団体であるUSCIBも「アメリカのビジネスと企業にとって良い報せ」として「(政府の関連部局の)タン氏当選のための活躍を讃え」た。

 その米国は、19世紀にはヨーロッパの知財の恩恵を蒙ってきたが、20世紀に入って、現在も生きる成果を次々と生み出すようになる。さらに、プラットフォーマーに象徴される情報化を牽引しているために、自らの知財の保護に躍起になる。 このように考えると、中国が良いわけではないが、自国の利益を露骨に優先させて国際的な約束を次々と無視するトランプ政権が良いとも言えない。トランプ政権の全面的な後押しを受けたために、タンが難しい立場に立たされることもあろう。

さてWIPOの前身は、工業所有権に関するパリ条約と芸術作品の著作権に関するベルヌ条約の合同事務局だった。これが、日独などが急速に経済発展する中で67年にWIPOとなり、さらに74年に国連専門機関となった。日本は75年に加盟したが、それまでの日本は、模倣品や工業製品のパテント侵害等で問題にされる側だった。95年に創設された世界貿易機関に、中国が2001年に加盟する際の状況と似ていた。 70年代は、日本が安保理常任理事国を始めとする国連のポストへの願望をそれまで以上に露わにする時期でもあった。それは各国の警戒と反発を招くが、同時に70年代は米国の国連批判が明らかになり、80年代には露骨な反国連政策をとるようになった。日本のポスト獲得の姿勢は顰蹙をかったが、より露骨な米国の姿勢の陰に隠れることができた。

 冷戦が終わり国連の政治的な役割が高まる中で、日本は改めてポスト獲得を表明する。それは、政府代表が務める常任理事国入りに限らず、事務局長などの増加も進められた。

 ところが、日本国内には異論が出ず、左派も、改憲志向を隠さず軍事化を進める日本政府が「国連支配」を強めることは問題にしなかった。原発については賛否が分かれても、核の平和利用を推進する国際原子力機関の事務局長に日本人を送り込むことには、異論がなかった。 日本が世界に対して何をしているのかに、日本社会は関心を示さない。これはコロナ・ウイルス問題でも変わらない。中国、韓国、イランで深刻な事態が展開している時も、右派が近しいはずの欧米で死者が相次いでも、オリンピックの開催が新聞やテレビで優先される時が続いた。 安倍がオリンピック開催に固執し続けた理由は明白である。放漫財政と金融刺激策が支えたアベノミクスは、オリンピックで負債を帳消しにすることを前提にしていたのだから。 <

 さらに問題なのは、それに乗ってオリンピック騒ぎを続けた日本社会である。しかも、延期が決まったとたんに東京封鎖まで議論されている。それほど深刻でありながら、オリンピック開催が建前である間は議論できなかったのである。オリンピックは都民の命にも優先していた。 その日本と中国のどちらが「まし」か、私には何とも言えない。