【進歩と改革2019年4月号】掲載


ナチス解放75周年とベルリン

 1月24日、ベルリン市議会が休日法の改正案を採択した。これにより、ベルリン市は3月8日の国際女性の日を恒常的な休日とすることに加えて、2020年5月8日を、一般にヨーロッパ戦勝記念日と呼ばれるナチス・ドイツの降伏文書の発効から75周年を記念する休日とすることが決まった。

 一方日本では、浩宮が天皇に即位する19年5月1日と即位の礼が行われる10月22日を休日とすることが決められた。そのような日本社会にとって、このベルリン市議会の議論は参考になる点が多いことから、紹介する。

 ベルリン市議会は2016年の選挙の結果、従来の2大政党の一つで中道左派の社会民主党(SPD)が38議席、中道右派のキリスト教民主同盟(CDU)が31議席で、それぞれ第1党と第2党の座は維持したものの、ともに議席を減らし、特にSPDは過去最低の得票率となった。躍進したのが、難民受け入れに反対する「ドイツのための選択肢(AfD)」と、旧東ドイツの政権党だったドイツ社会主義統一党の流れを汲む左翼党で、AfDは一挙に23議席を得て第5党に、左翼党は27議席で第4党となった。

 2011年から16年のベルリン市議会は、SPDとCDUが連立を組む保革連立の状態だった。しかし両党が議席を減らしたために、この連立では過半数はとれない。これを受けて、SPD、第3党の緑の党(27議席)と左翼党が組み、赤赤緑と呼ばれる連立が成立した。先の改正案を提案したのはこの赤赤緑連立だった。

 ドイツ連邦議会では、特に05年以降は2大政党の状況が崩れ、保革連立が常態化しているが、17年の選挙では両党がさらに得票を減らし、特にSPDはベルリン市議会と同様に第2次大戦後最低を記録した。その一方でAfDが初めて議席を得る中で、最終的に改めてCDU(南部のバイエルン州を中心とする地域政党で、CDUと友党関係にあるキリスト教社会同盟〔CSU〕を含む)とSPDの連立が成立した。保革連立が長期に渡る中でSPDはその存在意義が問われる事態となっていたが、AfD台頭が保革連立の維持に働いたのである。これに対してベルリン市議会では、AfDへの危機感に加えて左翼等の躍進があったことが逆に左傾化を招いたことになる。       

 議会で改正案を説明したのは左翼党のカーティナ・シューバートで、次のように述べた。「ここ(ベルリン)は、ナチスの野蛮さ、ユダヤ、ロマ、(ロマと同じ起源を持つとされ、ロマと同様にナチスに迫害された)シンティの虐殺、数十万人の東欧人の奴隷化、社会主義者、共産主義者、クリスチャンの迫害、病人の殺害、が始まった場所です。ここは第2次世界大戦が決定され、始められた場所です。特に、反ユダヤ主義、人種主義そして反ジプシー主義が再び社会的に受け入れられ始めていると思われ、右翼ポピュリストが世論を支配しようと試み、難民が保護主義と中傷の犠牲者ではなく脅威として見られる現在、国の首都であるベルリンが、当時とは異なり連合国の解放を感謝しており、ナチスの恐怖が繰り返されないことを保証するために出来うる全てのことを行い、平和、連帯、コスモポリタニズムそして寛容を変わらずに象徴することは、重要です。」

 その上で彼女は、1985年5月8日にヴァイツゼッカー連邦政府大統領が行った演説を引用した。これは「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる」と述べたことで日本でも有名な演説で、ここで彼は、この日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と呼んだ。

 この提案に保守派は反発するが、その焦点が当てられたのは主に国際女性の日だった。とはいえ、性差別の撤廃に反対が寄せられたのでは、もちろんない。CDUのシュテファン・エヴァースは、「彼ら(提案者)は、北朝鮮、キューバ、ベラルーシ、ヴェトナムをまねているだけです。……3月8日を休日とするのは典型的な社会主義者の伝統ですから」と反発し、19年1月24日には、この修正案の採決に先立つ審議において、AfDのマーティン・トレフツァーが「何よりも、男主導の党官僚のアリバイ行事だった東ドイツの苦い現実を、女性の日がごまかそうとしている」と批判したのである。       

 国際女性の日は、1904年3月8日、ニューヨークで女性が参政権を求めるデモを起こしたことに起源を持つが、17年にはこの日のデモがきっかけとなってロシア二月革命が起きたことから、エヴァースの言うように社会主義圏の諸国で特に重視された。このことから、女性の権利を記念すること自体ではなく、それが旧東ドイツと結びつくこと、そしてそれを旧東ドイツに起源を持つ左翼党が提案することが問題とされたのである。ただし旧東ドイツでは3月8日は休日ではなく、また1975年に国連総会がこの日を国際女性の日としたことに加えて、帝政が倒れていわゆるヴァイマール共和制が成立する議会選挙で初めて女性が参政権を行使した1919年から100周年を記念することも、指摘された。       

 議論においては、2017年10月31日が宗教改革記念日としてドイツ全体の休日とされたことも引き合いにだされた。1517年のこの日、マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルクの教会の扉に貼り付けたとされ、これをきっかけに宗教改革が始まった。ヴィッテンベルクを抱えるザクセン・アンハルト州などはこの日を休日としているが、2017年はその500周年だったのである。

 保守派は、ベルリンが宗教改革記念日を休日にしたのがこの年限りだったにもかかわらず、なぜ女性の日は恒常的な休日なのかと問うたが、緑の党のアンヤ・コフビンガーは「あなた達が宗教改革の日を常に望んでいるのは分かっています。……しかしこの都市は今や多宗教または極めて無神論的なのです」と述べた。ただしこれは、急増するイスラム教徒の移民や難民に加えて、東ドイツが宗教を批判したことと象徴的ではあってもキリスト教を掲げるCDUへの連関も伴った。投票結果は賛成87、反対60、棄権0で、連立与党の賛成に対して、CDU、AfD、自由民主党(FDP)は反対した。

 つまりここで問われたのは、性差別の撤廃自体には現代的な意味があるとしても、東ドイツとの関連が起きる場合にはどう向き合うのかということだった。そして、神聖ローマ帝国を揺るがし、ドイツ全土を荒廃させた30年戦争を引き起こすと同時にヨーロッパの近代を開く大きなきっかけともなった歴史的に極めて大きな意義を持つ宗教改革であっても、宗教的な軋轢が表面化する「今」をふまえると、簡単に記念することは出来ないのではないかということも副次的な問題となった。

 これに対してナチスからの解放75周年記念日は主要な争点にはならかった。極右と呼ばれるAfDも少なくとも直接反対することはなかったばかりか、先に引用したようにシューバートがこの記念日について論じた際にはAfDの議員からも拍手が起きた。

 1985年に、5月8日を「解放の日」と呼んだヴァイツゼッカーもCDU党員、つまり保守派だった。そしてシューバートの言葉を借りれば、「その当時の西ドイツはなお5月8日が本当に解放の日なのかどうかを議論していた」。つまり、かつてナチスを積極的に支持した者や直接にナチスに関わった者が多く生存していた時代には、ナチスを問うことはナチスの時代を生きた多くのドイツ人の責任を問うことに直結し、軋轢を伴っていた。だからこそ1920年に生まれ、人々がナチスに熱狂する時代を生き、父がナチスの外務次官を務めたヴァイツゼッカーが、同時代者として改めてナチスの降伏を「解放の日」と呼び、異なる者が共生する必要を説く意味があった。

 しかし、ナチスを問題にすることが自分たちの責任の問い直しと直接的に結びつかなくなれば、その軋轢は小さくなり、政治的な対立要因ともならなくなる。ドイツ政治においてもはやナチスへの評価は政治的な左右の色分けに基本的には影響しない。ナチやネオナチが批判や侮蔑の言葉として使われることはあるが、それはナチスが蘇っているからではなく、ナチスが容認されないためである。そうであるのならば、この提案のように改めてナチスを問題にする意味も、反対する意味も小さくなる。そしてこのような社会状況があるからこそ、ドイツはヨーロッパ統合の中心に位置することが出来る。       

 日本では世代交代が日本軍国主義の容認をむしろ強めた。その中で、天皇の交代を控えて、韓国のムンヒサン国会議長が改めて天皇の戦争責任を問うている。それは、日本社会が、日本軍国主義と天皇制の関連を問い直さず、天皇の存在を確固たるものにする一方で、天皇制の暴走を物理的に防ぐ憲法第九条の改変を議論していることに対する、当然の反応だった。ところが日本政府はこれに強く反発し、議長に謝罪を要求すらしている。裕仁の免罪が、彼を訴追しなかった東京裁判に根拠を持つ一方で、東京裁判への批判は後を絶たない中では、異常な反応である。

 もし安倍晋三が天皇制を守り、しかも憲法九条を改変したいのならば、ベルリン市以上に、日本軍国主義からの解放七五周年を祝う必要がある。それは、法制度の変更を象徴的な行為で補おうとする、いわばごまかしとも言うべき側面があるのだから。しかも、ムンが言う、裕仁の息子が「おばあさんの手を握り、申し訳なかったと一言言えば、問題は解消されるだろう」に通じる。本質を変えないで形式で対応するこれらの措置は、日本保守派にとっては実は良い解決策なのである。

 さて、筆者の勤務する大学では裕仁の誕生日である4月29日から浩宮の即位する5月1日は授業を行わないこととなった。ゴールデン・ウィークを全て授業日とすることを決めていたのを変更したのである。学長がごり押ししたためではない。評議会では、法学部長、法科大学院長、法学部選出委員、文学部選出で歴史学専攻の委員らを含めた全員が賛成した結果で、反対意見を表明したのは筆者一人だった。一大学の中の出来事に過ぎないが、このようなことこそ日本社会の状況をよく表しているかもしれない。そして日本で主流となっているこのような状況はヨーロッパではネオナチ的であり、極右と呼ばれるAfDは、日本ではむしろ進歩的となる。彼我の差は大きい。