【進歩と改革2019年3月号】掲載


メディアを巡る半世紀




 「平成」を回顧する企画がメディアにあふれている。もちろん元号は無意味だが、あるまとまりをもって区切ればそれなりの意味は生じる。また、その区切り方自体がそのメディアや社会のあり方を示し、どのような区切りが注目されていないかも同様である。そこで、メディアのあり方から、今年、周年を迎える出来事を整理してみよう。

 「平成元年」=1989年の日本社会は「自粛」の中で開けた。この中で、前年12月7日に長崎市議会で「天皇の戦争責任はあると、私は思います」と答弁した本島等市長に、保守派と右翼の非難が集まっていた。12月17日には、自民党長崎県連が本島の県連顧問解任を決定し、県連党規委員長だった松田九郎衆議院議員は「自民党国会議員は(本島市長からの)陳情に応じない」、「誰のおかげで市長になったのかを思い出させてやる」等と発言した。本島には右翼の脅迫が相次ぎ、翌年1月18日、市役所入口前で右翼団体構成員に銃撃され、重傷を負った。

 この2年前の87年1月24日、朝日新聞東京本社に散弾銃が発射され、赤報隊と名乗る者が犯行声明を発した。5月3日には阪神支局が襲われ、小尻知博記者が殺され、犬飼兵衛記者が重傷を負った。勤務中の新聞記者が襲撃されて殺害されたのは初めてだった。9月24日には名古屋本社社員寮が襲われ、88年3月12日には静岡支局に時限爆弾が仕掛けられた。「平成」は朝日と本島へのテロの中で始まった。

 40年前の79年、渡邉恒雄が読売新聞取締役論説委員長に就任した。この後、読売は論調が大きく変化し、84年1月には、「進歩派の反核運動は、有効な核軍縮に寄与せず、ソ連の西側分裂工作に奉仕する結果を生むに過ぎない」(1月1日)、「軍事力の抑止均衡の理論は尊重する」(1月3日)、「アメリカのグレナダ侵略に賛意を表する」(1月4日)と社説で主張した。

 87年11月、76年に『読売新聞百年史』を作ったばかりの読売は唐突に『読売新聞発展史』を発行し、84年元旦の社説を再掲した上で、「この社説は現在まで『読売新聞の今日の社論の基礎的立場』として社内で承認されている」と評した。筆者が確認した限り、本書はこの年起きた朝日襲撃事件には全く触れていない。同年、渡邉の路線に抗して読売を退社した黒田清と大谷明宏が同時に著書を発表したが、ともにこの事件から筆を起こしていること(黒田『新聞が衰退するとき』文芸春秋社、大谷『新聞記者が危ない』朝日ソノラマ)とは対照的である。

 91年5月、渡邉は読売新聞社長・主筆に就任し、92年には猪木正道を会長とする憲法問題調査会を設置、92年12月9日には内部記者による憲法問題研究会が設置され、「渡邉恒雄社長……などの読売の幹部、役員が連日欠かさず出席し、熱心に議論に参加」(読売新聞社調査研究本部『提言報道』中央公論新社、2002年)した。これらを受けて、94年11月3日、読売は全紙面を使って憲法改正試案を発表する。読売はその後も九五年五月三日に総合安全保障政策大綱、96年5月3日に内閣・行政機構改革大綱を発表するなど、「提言報道」を強める。

 50年前の69年には、前年にサンケイ(現産経)新聞社長となった鹿内信隆が安保条約堅持を社として決めることを年頭の社員大会で表明した(鹿内信隆『泥まみれの挑戦』サンケイ出版、1978)。70年には、田中角栄自民党幹事長が全国の支部長などに宛てて、「同紙(サンケイ)の拡張はわが党広報活動の拡大にもつながる」と講読を呼びかけ、73年6月には自民党による日本共産党批判の意見広告を掲載し、紙面に「正論」欄を設置、雑誌『正論』を創刊した。

 産経のその後の右翼的な動きは改めて顧みるまでもないが、教科書発行に乗り出したことはその中でも特筆すべきだろう。産経が自ら「新聞社が教科書づくりにかかわるのは初めての挑戦であるが、…読者および国民の支援を仰ぎ、また批判も受けたい」(98年1月9日)と表明した通り、国の検定を自ら受けることは報道機関としての自殺行為だったためである。

 新聞購読率はすでに7割を割っているが、新聞により状況が異なる。第2次安倍政権成立直前の2012年から17年末の5年間で、全国紙の中で最も発行部数を減らしたのは朝日(20・4%減)だが、最小は産経(6・4%)、次いで読売(10・3%)である。これをふまえると、産経が自民党の准機関紙たることを表明から50年、渡邉の読売支配本格化40年、読売の「社論の確立」35年、改憲私案発表25年などに象徴的な意味が生じる。

 メディアに対する社会的圧力とテロの中で始まった「平成」は、社会全体の極右化の中で終わろうとしている。それは、すでに内部から蝕まれていた一部のメディアが右翼プロパガンダとしての姿を露わにし、左翼とされるメディアも民族主義化した時期だった。日本社会全体のフェイク化である。