【進歩と改革2018年9月号】掲載


少子化と移民―歴史と現状



 はじめに

 自民党の杉田水脈代議士が、性的少数者は「生産性」がないので税金で支援する必要はないと表明し物議を醸している(「『LGBT』支援の度が過ぎる」、『新潮45』2018年8月号)。自民党議員の同様の発言は止まらない。6月26日には二階俊博自民党幹事長が「子どもを産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考えて(いる人がいる)」と述べ党首討論でも取り上げられ、5月27日には萩生田光一幹事長代行が「『男女平等参画社会だ』『男も育児だ』とか言っても、子どもにとっては迷惑な話かもしれない」と語り、5月10日には加藤寛治代議士が「結婚しなければ子供が生まれない。人様の子どもの税金で老人ホームに行くことになる」と発言し、後に撤回した。

 このような発言が相次ぐのは、彼らが少子化に対して強い危機感を抱いているためである。これは少子化担当大臣を置いたのが2007年の安倍内閣であり、その後も安倍が少子化を「国難」と呼んできたことによく表れている。

 もちろん危機感を持っているのは右派だけではない。毎日新聞が7月15―17日に社説で人口減少を集中的に取り上げたように日本社会全体の関心である。このため、これらの発言が批判される際にも、「まるで……戦前の発想だ。……深刻な少子化の責任を、国民に転嫁するのも全く筋違いだ。……必要な政策を進めてこなかったのは、政治の怠慢」(朝日社説、6月29日)などとされることが多く、少子化をめぐる危機感そのものは問題とならない。

 つまり、自民党議員の発言は日本社会全体が共有する危機感に裏打ちされているからこそ相次ぎ、しかも政治の無策や失策に言及を避ける上に本音が表れるからこそ、「失言」となる。その意味で、彼らがイデオロギー上重視し、非合理的に暴走する歴史認識問題などとは異なる面を持つ。例えば、靖国参拝を繰り返して対中、対韓関係のみならず対米関係も悪化させた小泉や安倍、姉妹都市である南京の表明訪問団にわざわざ南京虐殺はなかったと発言した河村名古屋市長、サンフランシスコとの姉妹都市解消を一方的に叩きつけた吉村大阪市長らの行動は、政治的にも経済的にも全く合理的ではなく、大きな損失を招いた。しかし彼ら自身は、これが思想上妥協できない重要な問題と認識しており、合理性を乗り越えて問題化させている。これに対して少子化問題は現実問題として広い関心を集めている。

 一方、日本の人口が1億2808万人でピークを記録した2008年はブラジル移民が始まって100周年でもあり、今年も、ブラジルで開催された日本人の移住110周年記念式典に秋篠宮の眞子が出席した。ところが、人手不足が問題となり、移民の受け入れなども論じられていながら、これらが関連づけて論じられることは少ない。両者の関係は改めて言うまでもないはずだが、整理しておこう。

 一 棄民としての移民

 近代を迎え、増加する人口への対応が世界的に重要な課題となり、植民地獲得競争の背景の一つとなった。日本も対応策として移民先の確保に力を注ぎ、1885年にはハワイと移民条約を結び、政府の主導により移民を募った結果、10年間で約2万9000人がこれに応じた。90年からはカリフォルニアへの集団移民も始まり、1900年には米国への移民が年間1万人に達したが、米国社会の反発を招き、いわゆる排日法が成立する。日本社会はこれを強く批判し、今でも右派は、米国が日本からの移民を受け入れなかったことをもって、日本が対米戦争を始めたことを正当化する理由の一つに掲げている。日本移民の拒否は、日本社会にとってそれほど大きな意味を持っていたことになる。この中で1908年にブラジル移民が始まった。

 国民を海外に送り出す一方、日本は植民地の獲得にも力を注ぎ、95年に台湾、05年にいわゆる南樺太、10年に大韓帝国を相次いで植民地化し入植を進めた。さらに32年にはいわゆる満州国を成立させ、これを傀儡国家として操った上で満蒙開拓団を募り、約二七万人を送り込んだ。

 これらの移民や入植者たちは、事前に聞かされていた条件とは異なる環境の中で多くが苦しんだ。中には人々が自ら望んで新天地を目指しながら悪徳業者に騙された者もあったが、それ以上に、政府が主導して剰余人口を海外に移送した点に本質的な違いがあった。これはまさに棄民政策だった。そしてその中でも、強制的に集められて大日本帝国の侵略と露骨に一体化させられた満蒙開拓団は、大日本帝国の敗戦に伴い悲惨な経験をすることになる。

 大日本帝国降伏後に、旧植民地等から約300万人の民間人を含む660万人を超える引き揚げ者が帰国した。その敗戦が移民政策の破綻でもあったことの反映であり、剰余人口問題は逆転して一挙に深刻化する。しかし、日本国籍を持つ引き揚げ者に対しては、外交を停止された外務省に代わった厚生省が、それなりに手厚く対応した。

 これとは対照的に旧植民地出身者は簡単に切り捨てられた。これによりいわゆる在日韓国朝鮮人や中国人などをめぐる問題や、徴用工、慰安婦、未払い賃金、軍票など多様な問題を大規模に生み出すが、「母国」への送還が進められる一方で、サンフランシスコ講和条約を皮切りにして51年以降、順次、各国と結ばれる平和条約等の中で、個人補償をなおざりにしたままに、形式的に「解決」されることになる。この間、「100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになって不都合であること」を回避するために、日本は韓国のサンフランシスコへの招請に反対するなど、入念な対応がなされた。これは、朝鮮半島の分裂とそれぞれに独裁政権が成立したことや、中台の対立の中で、行き場を失った人々をより深刻に追い込むことになる。民主化したはずの日本政府だったが、自らの意に反して強制的に「国民」とされた他国民を乱暴に棄て去ることに躊躇はなかった。「民主」の枠外に置かれた人々がどのような処遇を受けるかが、露骨に示された。

 これらの問題は90年代に改めて顕在化した。冷戦の終焉、台湾や韓国の民主化などが後押しした結果だったが、興味深いのは、これがいわゆる歴史修正主義、嫌韓、嫌中などの動きが活発化し始める時期でもあったことである。それは日本社会が行った棄民を否認することでもあった。

 講和後、改めて移民つまり剰余人口の海外移送が始められる。引き揚げに加えてベビーブームの中にあった以上、まさに政府が待ち望んでいたことだった。五一年にブラジルへの移民が再開され、五四年には日本政府が海外移住推進のために海外協会連合会を設立、55年に日本海外移住振興会社が設立され、63年には両者を統合して海外移住事業団が設立された。59年にはブラジル移民が年間7000人を超え、延べ13万人に達するなど、高度経済成長が始まった時期は移民のピークでもあった。

 56年にはドミニカ共和国への移民が開始されるが、用意された土地が荒れ地で、当初約束されていた所有権の移転も行われないなど、特に問題となった。90年代になってようやく注目され、2000年には移住者たちが国家損害賠償を求めて日本政府を訴え、06年に地裁が国の責任を認めるが、20年以上が経過したために賠償請求権が消滅したとして請求が棄却され、その後政府が特別一時金を支払い、和解することとなった。大日本帝国の移民政策以上に、民主化したはずの日本における移民が特に悲惨なものだったことに、なりふりかまわない当時の人口問題の深刻さと、これがまさに棄民だったことがよく表れていた。

 74年、海外技術事業団と海外移住事業団などを統合し国際協力事業団(JICA)が設立された。「人を通じた国際協力」を掲げる政府開発援助の実施機関は移民推進機関をルーツの一つとして生まれたのである。海外移住関係部門はその後も維持され、94年に大幅な縮小を経て、最終的に廃止されたのは2003年だった。

 二 人口の剰余から人手不足へ

81年に誕生した米国のレーガン政権は大規模な減税を行うと同時に軍事費を拡大し、意図的なドル高政策をとって強いドルを演出した。これらにより、米国は巨額の財政赤字と貿易赤字にあえぐことになり、世界最大の債権国だったが一挙に債務国に転落した。この欠損を補ったのが中南米からの資金流入であり、中南米は債務危機に陥った。

 一方、バブル期を迎えた80年代後半の日本は人手不足に陥った。ここで経済界が接近したのが経済危機のブラジルだった。従来から日系2世には就労制限のない在留資格があったが、89年に日系2世の配偶者、日系3世さらにその配偶者にもこれが拡大されたのである。これによりブラジルからの出稼ぎ者が激増し、05年にはブラジルへの移民累計を越える30万人に達した。奇しくも合計特殊出生率が過去最低を記録した年だった。日本社会は、移民推進機関などをもとにJICAが創設されてから10年余りで、外国人労働力の受け入れに転換したのである。しかもその対象となったのはかつて棄てた者の末裔だった。

 しかし08年にリーマン・ショックが起こると、これらの出稼ぎ者は一転して首切りの対象となった。政府も09年4月から、「在留資格による再入国を認めない」上で帰国支援金の支給を始めた。これは、内外の批判を受けて、再入国制限を「原則三年間」の時限的措置とされたが、要するに、人手不足なので日本に来てもらったが、景気が悪くなったので帰国して二度と戻ってくるなと宣言したのである。日本から移民した人々の苦闘がしばしば語られるが、21世紀の日本社会が示したのも、事前に聞いていた甘い話とは異なる苦しい現実だった。これは、日本社会が100年前に棄てた人々の子孫が、景気によって都合良く出し入れできる労働力の吸収場所となったことを意味した。日本全体としてはそれまで農村が担ってきた役割を、都合良くブラジルの日系社会に押しつけたのである。

 ブラジル移民100周年を彩ったのは、その子孫が改めてブラジルに送り返されることだった。かつて排日法に反発した日本は、自らが他者を排除することには常に鷹揚だった。しかし、それでもなお血統主義が貫かれていた。

 これと同時期に労働力不足への対応として別な形で推進されたのが、技能研修である。90年に「研修」在留資格を認める団体監理型の研修が始められ、91年には「外国人技能実習・研修制度の円滑な運営・適正な拡大」のために国際研修協力機構(JITCO)が設立された。93年には研修終了後に2年間の雇用契約が認められ、97年には3年に延長された。これにより技能実習の名目で、安価な労働力の確保が可能になったが、当然に深刻な人権問題を引き起こした。2016年に技能実習生保護法が成立し17年に施行されたが、この年末で27万4000人に達する一方、4226カ所の事業所で違法残業などの法令違反が見つかった。原発事故の除染作業に従事させていた例も報告され、まさに汚れ仕事を低賃金で押しつける側面を強く持つのが技能実習制度であることが示されている。血統主義を離れて中国や東南アジアから期間を限って連れてこられた彼らは、非合法滞在者ではないにもかかわらず、まさに労働の最下層に置かれているのである。

 三 人口減少問題が突きつけていること

 時に本音が漏れ出すにしても、保守派も女性や性的少数者に関する状況を問題にするのは、彼らが日本国民だからである。それは沖縄が問題になる状況とよく似ている。保守派にとって沖縄は「日本」であり、またそうでなければならず、独立は認められない。だからこそ、日本政府が沖縄に押しつけている矛盾が日本全体において問わざるを得ないし、同時にごまかすための言い訳も繰り返される。

 一方人口減少は日本の内側の問題だが、もはや急激な人口の自然増が期待できない以上、ほとんど唯一の有効な対応策は移民の受け入れである。しかしこれは日本の内側の問題を外側に関連づけることに他ならない。それは当然に日本社会の矛盾を暴き出すが、奇妙なことに日本社会はそこに十分には注意しない。国内問題である少子高齢化に関心が寄せられながら、日本社会と非日本社会の境界上にいる日系ブラジル人や日本社会の外にいる技能実習生の問題は同時には語られない。そしてそれは、移民を受け入れた際に生じるだろう問題を物語る。

 1999年、日系ブラジル人が多く住まうことで知られる、愛知県豊田市の保見団地で、右翼テロリストがブラジル人を襲った。棄民を続けてきた日本社会が移民を受け入れざるを得なくなった際に起きたのは、恐怖による排除だった。ただしそれは一部の過激派の行動に留まらなかった。リーマン・ショック後の日本政府は、これと同じことを多少は洗練された形で行ったにすぎない。

 ちなみに、日系ブラジル人の日本への出稼ぎと日本定住化は、日本で生まれ、もはやブラジルに帰ることも望まないが、それにもかかわらず十分な教育機会や適切な就労環境を得られない子ども達の問題などを生み出しているが、それだけではない。ブラジルの日系社会の人口減少も招いている。しかしこれはさらに問題にならない。

 1924年、米国の排日法に際して、米国留学の経験を持ち、米国で日本語新聞を発行していた加藤十四郎は当選したばかりの帝国議会で次のように演説した。

 「『ルーズヴェルト』氏(1901―09年に大統領を務めたセオドア・ルーズヴェルト=河辺)ガ」「日米両国間ノ帰化条約デモ締結スルノ外ハナイ、斯ウ云フヤウナ考ヲ持タレタサウデアリマス、而シテ其意味ヲ以テ当時ノ駐米大使青木子爵(1889―90年に外相を、06―08年に駐米大使を務めた青木周蔵=河辺)ニ助言サレタノデアル、トコロガ傲岸ニシテ不屈、而モ古キ頭ノ持チ主タル所ノ青木子爵ハ、忠勇ナル所ノ日本臣民ヲ米国ノ養子ニヤルヤウナ条約ヲ交換スルコトハ絶対ニ御断リ申スト云フコトヲ言ッタサウデゴザイマシテ、到頭其事ガ御流レニナッタノデアル、サウ云フ風ニ米国ノ有力家ヨリシテ、非常ニ機会均等ノ端緒ヲ開クコトヲ提言スルニ際シテ、ソレヲ捉ヘルコトヲセズシテ、絶対ニ千載ノ一機ヲ逓シタコトハ実ニ所謂流星光底長蛇ヲ逸スルモノデハゴザイマセンヌカ」(『衆議院議事速記録第七号 大正13年7月9日』)。

 一方で純血主義を誇って受け入れを拒みながら、相手を批判し、しかも他方で棄民を進める日本の矛盾を突いていた。これは100年近く後の今もそのままに当てはまる。

 余剰人口の処理が大日本帝国の侵略戦争の背景の一つであり、その結果として手に入れた領土へ入植し、戦争を遂行するために提唱されたのが生めよ増やせよだった。人口増に対して日本は棄民と戦争を行い、その結果さらなる人口増を求めたのである。このような状況は民主化した後も基本的に変化がなく、21世紀を迎えても続いている。二階を始めとする自民党議員の発言の問題は、かつての生めよ増やせよに単純につながることにあるのではない。それに先だつ移民政策と、今の日本の矛盾を直視しない点にこそある。この点ではリベラルの議論も同根ではないだろうか。問題はむしろここにある。