【進歩と改革2018年7月号】掲載


南北首脳会談の意味


 はじめに

 4月27日、ムン・ジェインの強い主導により3月6日に発表された合意に基づき、パンムンジョムでムン・ジェイン韓国大統領とキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長が会談を行った。2000年にキム・デジュンとキム・ジョンイルが、2007年にノ・ムヒョンとキム・ジョンイルが会談して以来、3回目の南北首脳会談だったが、北朝鮮首脳が韓国側に入ったのは初めてだった。5月17日には、初の米朝首脳会談を前にしてトランプ大統領が北朝鮮の体制保証の意向を示すなど、一挙に事態が進展している。

 日本では、安倍晋三が、2002年に小泉純一郎とキム・ジョンイルが初の日朝首脳会談を行った際の官房副長官だったにもかかわらず強硬姿勢をとり、06年7月には幹事長として制裁発動に関わり、さらに首相として10月には独自に制裁を強化するなど、一貫して圧力を主張してきた。このため、南北と米朝で同時に対話が進むことについて、日本が蚊帳の外に置かれていると言われるようになった。その思惑は異なるにしても3月20日に自民の山本一太が、22日に公明の佐藤茂樹が、23日に元民進の岡田克也が相次いで国会で質問するなど、外交で評価を維持してきたはずの安倍内閣の揺らぎがようやく鮮明になった。

 一方、リベラルは対話を繰り返し求めていたが、漠然としたものだった。例えば朝日は「非核化への本格対話を実現したい」と述べつつ、「まず留意すべきは、国連安保理にもとづく制裁の態勢を今後もしっかり維持することだ」と断言し(3月8日、社説)、基本的には安倍が進めてきた路線の枠内での態度の軟化にすぎなかった。

 日本はどの程度、蚊帳の外なのか、それが是か非かを問題にする際に留意すべきことが少なくとも4点ある。

 第1に、北朝鮮の誕生と同時に非合法政府との烙印を押したことが朝鮮戦争の要因の一つとなり、この結果、北朝鮮にとって体制保証と米朝直接対話が主要な課題であり続けていること、第2に、米国はかつてより体制転換を求めないと表明していたこと、第3に、政権により若干の変化はあるが、韓国の姿勢が基本的にはキム・デジュンが示した路線を継承していること、第4にそもそも日本の北朝鮮政策の問題点が十分に論じられていないことである。

   一 生存を否定された北朝鮮

 第1の点は改めて述べるまでもないが、簡単に整理しておこう。1910年に日本が植民地とした朝鮮半島の戦後のあり方は早い段階から重要な問題であり、1943年のワシントンにおける米英会談でも取り上げられ、信託統治を経て独立する方針が決められた。45年10月に米国が信託統治の意向を発表するが、朝鮮半島においては即時独立運動が起き、南部を統治する米国はやっかいな事態に直面した。米国は、47年9月に朝鮮問題を国連総会に持ち込み、11月には独立のための選挙の実施を決議する。

 しかしソ連は、選挙監視のために設置された委員会の北側立ち入りを拒み、南側の住民も南単独の選挙に反対した。結局、48年5月、反対を弾圧して多くの犠牲者を出しながら選挙が強行され、8月に大韓民国が樹立された。北もこれに対応せざるを得なくなり、9月に北朝鮮が樹立されるが、12月に国連総会は、北朝鮮を非合法政府と暗に示す決議を採択する。北から見れば、予定とは異なる事態にもかかわらず、誕生と同時に存在が否定されたことになる。

 49年10月、中華人民共和国が建国を宣言するが、国連で中華民国がすでに議席を持っており、中華人民共和国が議席を得ることは拒否される。北朝鮮はますます危機に追いやられ、50年6月の朝鮮戦争に至ることになる。

 当時の日本では、米国が国連を利用して策謀をめぐらしたのが朝鮮戦争だとする議論が多くなされた。たしかに米国の不手際の責任は大きい。しかし米国がその意志に反して日本軍国主義により戦争に引きずり込まれ、多大な犠牲を強いられた上に日本の民主化にまで責任を負わされ、朝鮮半島への対応も求められたことについては、同情すべき点も多い。蒋介石が日本軍の蛮行を訴えていたことに耳を貸すべきだったことを教訓として得た米国が、満州事変以降10年間の日本との対話が無意味であり、このような異常な勢力に対しては軍事力によってしか平和を守れないと確信した上で、日本風に言えば「毅然」と対処したことは、その是非はともかく理解できる面もある。

 しかも、当時から対応に問題があったことが指摘されており、例えばリー国連事務総長は次のように回想している。「もし1950年春に北京政府の国連代表権が承認されていたら、はたして朝鮮戦争のようなことが起こっただろうかと、私は考えてきた。…この事件に関わった他の人々もこの意味を考えていた。グラッドウィン・ジェブ(英国の国連大使)もその一人で、1954年1月13日にメリーランドのボルティモアで次のように宣言すらした。『北京政府が1950年初頭に国連に議席を得ていたら、北朝鮮の侵略は決して起こらなかっただろうと、力を込めて論じることすら出来る』」(Trygve Lie "In the Cause of Peace-Seven Years with the United Nations", the Macmillan Company, 1954, p.272)。

 それにしても朝鮮戦争は、米国に対して日本軍国主義とナチスに代わる新たな脅威が共産主義であることを抜きがたく植え付ける一方、誕生と同時に非合法政府の烙印を押された北朝鮮には軍事力を以てしか国の維持が図れないことを確信させた。北朝鮮にとって軍事力による平和に代わり得るのは米朝直接対話による体制保証となった。

 二 南北の共存路線と障壁

 1993年、大統領選挙に敗れたキム・デジュンは、「吸収統合されたドイツが深刻な統一後遺症を病んでいるのを見て、はっと我に返った。…急いでも、吸収統一してもいけなかった」(『金大中自伝T』495―497頁、岩波書店、2011)と確信するに至る。

 98年に大統領となり、2000年3月9日、彼はベルリンで講演してこの考えを国際的に示し、北朝鮮にも伝達した。いわゆるベルリン宣言だが、これを補足しつつまとめると次のようになる。東西ドイツは戦ったことがなかったことから心理的な溝が浅く、しかも世界第3位の西ドイツ経済が東欧の優等生だった東ドイツを併合した上に、西ドイツは人口で東ドイツの4倍、領域で2・3倍だった。一方、南北朝鮮は直接に戦ったが故に心理的な壁はより高く、韓国人口は北の2倍に過ぎず、領域は北朝鮮が韓国の1・2倍と広く、しかも韓国の経済規模は西ドイツの6分の1で、さらに当時は金融危機に喘いでIMFの管理下にも入ったことに加え、北朝鮮は経済が破綻し200万人とも言われる餓死者を出していた。これでは統一は共倒れを招くだけで、南北の共存を進める他に方法がなく、そのために北朝鮮を支援すると表明したのである。3ヶ月後、彼はピョンヤンを訪問し、初の南北首脳会談を実現する。

 南北共存の方針はノ・ムヒョンに引き継がれるが、イ・ミョンバク、パク・クネの保守派政権の下でも基本的に踏襲された。ベルリン宣言はキム・デジュンの理想ではなく、現実の反映だったために他ならない。

 問題は朝鮮半島の外にあった。01年に単独主義のブッシュ政権が誕生し、02年1月には、北朝鮮、イラン、イラクなどを「悪の枢軸」と決めつけた。これに対してキム・デジュンは2月にブッシュが訪韓した際に説得を試み、北朝鮮との対話も進める。4月にキム・ジョンイルと会談したイム・ドンウォン大統領統一外交安保特別補佐役は、「わたしが金委員長から受けた米国に対する態度は、大きく3つに要約できる。まず『不信』、そして『恐れ』、しかし『関係正常化を切に願っている』ということだ」(林東源『南北首脳会談への道 林東源回顧録』354頁、2008年、岩波書店)と語っていた。この過程で北朝鮮は日朝関係の改善にも取り組むが、9月に実現した小泉とキム・ジョンイルの会談が日本の世論を暴走させる。キム・ジョンイルが日本人拉致を認めて謝罪したのに対して、日本の世論は北への強硬姿勢に傾いたのである。

 北朝鮮から見れば、キム・ジョンイルが謝罪する以上の解決はないが、ここで沸騰した日本世論は安倍内閣を生み出した。北朝鮮は、ブッシュ政権の強硬姿勢を受けて対日関係の改善を試みたはずだったが逆効果となり、北朝鮮が軍事力による安全保障に向かうのをより促すこととなった。

 ブッシュ政権がイラク戦争に突き進む中で、03年1月に北朝鮮は核不拡散条約脱退を表明した。2月、ノ・ムヒョンが大統領に就任するが、3月に起きたイラク戦争は北朝鮮の米国不信を増し、対米抑止力の整備、つまり核兵器と弾道ミサイルの開発に力を注がせることになり、06年7月に発射実験を行うが、日本政府は制裁を発動する。

 日本は、90年までは政府が経済制裁を過激な手段として批判し、その代わりに話し合いを主張していた。経済制裁が日本が密接な貿易関係を持つ、人種隔離政策で悪名高かった南アフリカに関して論じられていたためである。しかし、90年代に国連安保理がイラクや旧ユーゴスラヴィアに制裁を科すようになると、政府は簡単に掌を返した。代わって経済制裁を非人道的として批判したのはリベラルだった。ところが日本が北朝鮮に制裁を発動した際には、右派のみならずリベラルもこれを顧みなかった。

 ミサイル実験から2週間後、米国上院外交委員会が、「北朝鮮 米国の政策オプション」と題する公聴会を開催するが、ここでヒル国務次官補は「我々は体制転換は求めない。我々が求めているのは体制の行動の転換」と述べた。また保守派のラガー委員長(共和党)が質したのは、「日本の反応がきわめて強い」ことだった。圧力を推進する日本の姿は、ブッシュ政権下の米国保守派をも驚かせていた。

 10月、北朝鮮は核実験に成功したと発表し、日本政府は独自に追加制裁を科するが、この20日後に行われた講演でライス国務長官は、「最近、希望に満ちた出来事があった。今月初旬、日本の安倍首相が北京とソウルへの歴史的な訪問を行い、不安を和らげ、この地域の将来についての見通しを明確にした」と話を始めた。この講演では、核実験よりもむしろ小泉政権下で途絶えていた日中、日韓首脳会談が再開したことを歓迎していた。日中、日韓の関係悪化は北朝鮮の核実験に劣らぬ緊張をもたらしていた。

 07年10月、ノ・ムヒョンがピョンヤンを訪問し、第二回南北首脳会談が開催されるが、08年2月にイ・ミョンバクが大統領となり、韓国の対北支援は弱まる。しかし、この年の米国大統領選挙をバラク・オバマが制し、また日本では09年に民主党政権が誕生し、奇妙なバランスが維持されたが、12年12月、第2次安倍政権が誕生し、13年2月にはパク・クネが大統領に就く。これは米国の姿勢の変化が直接に北朝鮮に影響することを意味した。

 三 トランプ政権の登場とその姿勢の変化

 ここで米国大統領となったのがドナルド・トランプだった。これに対して北朝鮮はミサイル実験や核実験を開始する。対話の可能性がない状態になった以上、核抑止の完成に力を入れることは北朝鮮から見れば当然だった。

 してこれは、核抑止論を迷いなく支持し、そのために核兵器禁止問題に反対してきた日本社会が難なく理解できるはずのことだったが、奇妙にも日本社会はここで沸騰する。日本社会は自国が核兵器を支持してきたことを顧みず、相変わらず唯一の被爆国などの空虚なスローガンを繰り返したのである。それまで経済制裁を批判していた日本が経済制裁を主導しても問題にすらしなかったことと同様だった。

 これに対して韓国社会は17年5月にムン・ジェイン大統領を選ぶ。ノ・ムヒョン政権で大統領秘書室長などを務めたムンがトランプ政権誕生後に緊張を高めている米朝間の緩和に着手するのは当然だったが、トランプの個性に加えて政権の陣容が定まらないこともあり、困難な課題だった。ここで重要なのは、ムンが、トランプに花を持たせる形も厭わず注意深く米国に根回しをしたことだった。

 ではトランプが急に北に融和的になった背景は何か。その一つに、大使館のエルサレム移転やイラン核合意離脱を始めとした中東政策の過激化があると思われる。

 トランプは、政権成立当初からイラク人などの入国制限を試みて国内外の強い反発を招き、シリア爆撃も行ってきたが、これらはいわゆるテロ問題に対するトランプ流の具体的対応であり、その是非はともかく、それなりの説明がつく。  ところが大使館のエルサレム移転は、トランプの支持母体の一つである原理主義団体の意向に添ったもので、具体的と言うよりは象徴的かつ原理主義的な決定であり、悪影響ばかりをもたらすことが当然に予想される。それにもかかわらずこれを強行した理由は、中間選挙を念頭に置いて支持母体に配慮したためと思われる。

 一方、中東問題と朝鮮半島問題は一九四七年から四八年にかけて、米国が関わる中で同時に生み出された双子の問題であり、両者を一度に緊張を激化させることは好ましくない。イスラエル、韓国、北朝鮮がいずれも2018年に成立70周年を迎えることは、偶然ではない。

 その中で、朝鮮半島に関してはトランプ自身に原理主義的な関心がないため、姿勢の変更が可能になる。そして何よりも、米国政府はブッシュ政権時から北朝鮮の体制転換を求めないと繰り返してきた。このようなことやトランプ政権に外交上の成果がないことを考えると、彼の行動が合理性を欠くにしても事態の悪化は避けるだろう。

 おわりに

 ここで唯一の対北強硬派である日本が問題となるが、谷内国家安全保障局事務局長や外務官僚が安倍と一体化している上に、ハト派とされる河野太郎を外務大臣にしているため、自民党内の動ける人間が限られる。唯一、利用可能なのは日朝会談を実現させた小泉純一郎だが、これは安倍にとっては政権を投げ出すにも等しい。そこで外務省は恥も外聞も捨てて日米首脳会談の開催を求めることになる。

 この中でリベラル系のメディアなどは日本政府に北朝鮮との対話を求めているが、私は反対である。日本政府の主張が日朝関係にのみ留まるのならばともかく、南北関係や米朝関係にも影響を与えるためである。キムやムンが様々な困難を直視し、現実主義に立って理念を語ってきたこととは大きく異なる。しかも日本の主張は北朝鮮の非核化と拉致問題の解決が渾然としており、特に拉致問題は何をもって解決とするのか、どこが交渉のゴールなのかも判然としない。

 キム・デジュンの言葉を借りれば、韓国と北朝鮮は直接に戦争を繰り広げ、数百万人の市民が犠牲になり、心理的壁が高い。3万7千人もの戦死者を出した米国にとっても同様である。その中で韓国は南北対話を喫緊の課題として取り組み、米国も北朝鮮の体制転換を求めないと繰り返してきた。

 これに対して朝鮮戦争の被害がなかったどころか、朝鮮特需で復興を果たしたと認識する日本社会は、軍国主義時代の責任どころか、冷戦後30年間の自国の姿すら顧みようとしない。日本外交を対米追随と評する者が相変わらず多いが、これは間違いである。日本社会全体の目指す方向が米国の強硬派と軍事面で一致することが多いに過ぎない。そのような日本の現状を生み出したのが他でもない日本社会であることを、もう少し認識すべきではないか。