【進歩と改革2018年6月号】掲載


外交論と国際主義はどこに



 「『外交成果』を政権浮揚の契機にしたいとの思惑」(4月21日、朝日朝刊)を伴った日米首脳会談が終わった。折しも、安倍首相が米国に発った17日、民進の小西洋之参院議員が国会前で現職自衛官に罵られる事件が起きたが、これに関して産経は、小西の「憲法を何も分からない首相と、それを支える外務官僚を中心とした狂信的な官僚集団」との発言を揶揄し(4月20日、産経抄)、翌日は「世界で存在感を発揮」と安倍を持ち上げる一方で、「政策論争ではなく醜聞追及だけを繰り返す野党」を批判した。自衛隊員に罵倒された小西を、彼の外務省批判を用いて産経が揶揄する、ここには外交が問われないままで「政権浮揚」になり得る社会の状況が表れている。

 91年、湾岸戦争を受けて外務省改革案が出され、93年、外務省は総合外交政策局創設を始めとする機構改革をし、この下でPKO法や新ガイドラインなど、日米安保体制が強化された。しかし政治家、報道、学者らの関心は低く、その後の省庁再編でも外務省はほとんど問われず、1869年以降生き残る唯一の省となった。同様に生き残ったのが法務省で、当時の日本社会が在日外国人や難民、移民に関心を持たなかったことが表れていた。

 その一方、外交政策評価において官僚の発言を重視する傾向が強まる。外務省改革の中心にいた一人が柳井俊二総合外交政策局初代局長で、彼は条約局長としてPKO協力法に、内閣官房国際平和協力本部初代事務局長として自衛隊のカンボジア派遣に、外務審議官として新ガイドラインに、事務次官として周辺事態法に、駐米大使としてテロ特措法に携わり、退任後も安保法制懇座長などを務めて安保法制推進に関わるが、朝日新聞で外交関係の社説を担当した薬師寺克行が、柳井の評価に基づき、「総合外交政策局はしだいに省内の便利屋的存在になっていった。(略)落ち着いて中長期的視点からの外交政策の企画立案などできるはずもない」(『外務省』岩波新書、2003)と結論付けたのはその一例である。

 この頃から、学者やジャーナリストが行う政治家や官僚へのインタヴュー、いわゆるオーラル・ヒストリーが活発に出版されるようになるが、そこでも同様の傾向が見られた。例えば、中島敏次郎元駐中大使、元最高裁判事は日本が初めてそして唯一核兵器の禁止に全面的な賛成を示した1961年の国連総会に参加していたが、『外交証言録 日米安保・沖縄返還・天安門事件』(岩波書店、2012)ではそのことへの言及はない。朝日新聞大阪本社「核」取材班が1995年に中島に取材し、記憶が薄いと、証人喚問への答弁のような返答を受けていたのだが。同様のことは中島と共に国連を担当していた枝村純郎『外交交渉回想』(吉川弘文館、2016)にも当てはまる。質問や編集する側が核兵器禁止問題を認識しておらず、官僚が設定した問題の枠を踏襲したのである。

 政治家や官僚の提灯持ちのような内容に堕すこともある。薬師寺が柳井を「国際環境が激変した90年代……新たな政策実現に挑戦し続けてきた希有な官僚」と評し(『外交激変 元外務省事務次官・柳井俊二 90年代の証言』朝日新聞出版、2007)、岡本行夫元北米一課長を「固定観念にとらわれることなく、現実を直視し事実に基づいて行動し、困難な状況を打開してきた」(『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』朝日新聞出版、2008)と評するはその例と言えよう。

 このような中で、佐藤優元外務省主任分析官が、2013年3月の『世界』別冊に「民主党外交はなぜ失敗したのか」を寄稿すると同時に、2月28日には名古屋「正論」懇話会で民主党外交について講演する事態も起きる。外交では左右に違いがなかった。

 国内問題に関しては、基本的な方向における激い対立が少なくなり、自治体の首長選挙でも原発や基地問題を除くと保革相乗りが一般化している。かつての革新の主張を保守派が受け入れざるを得なくなったことが大きく影響しており、安倍内閣が賃上げや教育の無償化を唱える事態にまで至る。

 ヨーロッパでも同様だが、だからこそ、EU政策、難民や移民の受け入れなど、外交政策に大きな政治対立が集中する。ところが日本では、外交に関しては記者、学者や編集者らがいわば官僚主導の議論にはまりこみ、外交に関心を寄せないままで外交政策への支持が高まり、その一方で論点を国内問題に集中させる。この結果、かつての革新的な国内政策を採る一方で、対外的にはタカ派の保守政権への支持が若者の間で強まるのは、当然だった。

 今年は、国際主義が主張され、国際労働機関が設立される契機となった第1次世界大戦終結100周年で、万国の労働者の団結を呼びかけた『共産党宣言』出版170周年、その草稿の世界記憶遺産登録から5周年である。だが、このような基本的な国際主義が未だに新鮮な点に、日本の問題がある。