【進歩と改革2018年4月号】掲載


ルーズベルトの陰謀論



 1月28日の朝日新聞が、「異説あり 真珠湾攻撃、米は察知? 孤立主義の米、日本から仕掛けさせる必要」と題して、ルーズヴェルト米大統領が日本のパールハーバー攻撃を事前に知りながらわざと攻撃させて米国を開戦に導いたとする主張を紹介する、宮代栄一編集委員による企画記事を掲載した。1946年のビーアド『「戦争責任」はどこにあるのか』の邦訳が出版されたことを受けての記事だった。

 パールハーバー攻撃を防げなかったことに対する政府の責任を問う声は当初から存在し、議会も上下院合同調査委員会を設置した。その後も、共和党の政治家からルーズヴェルトの失策や陰謀を指摘する動きが続き、また特にビーアドの著書を契機に、研究者やジャーナリストの間でも議論が起きた。

 しかしこうした陰謀はなかったことで結論がついている。この「論争」を日本人が整理したものとしては、須藤真志『真珠湾〈奇襲〉論争 陰謀論・通告遅延・開戦外交』(講談社、2004年)が手頃だが、須藤の言葉を借りれば、「(陰謀論について)納得できる証拠がどうしても見つからない…もう歴史を覆すような新しい陰謀論の資料は存在していないと思う」。

 それにもかかわらず陰謀論が絶えない背景は日米で大きく異なる。米国では、パールハーバーを契機に米国社会が根底から変化したことが大きい。

 第1次世界大戦の勃発から戦後処理の期間に大統領を務めた民主党のウィルソンの後を襲ったのは、共和党のハーディングだった。これ以降、クーリッジ、フーヴァーと、共和党は3人の大統領を生み出し、この下で1920年代の米国は繁栄を謳歌する。同時に対外的には軍縮条約や不戦条約などの成立に力を注ぎ、平和主義を推進する。

 しかし経済的繁栄はウォール街の大暴落で終焉を迎え、平和主義の前には、満州事変を起こした日本が立ちはだかった。フーヴァーは無能と評され、32年の大統領選挙でルーズヴェルトの前に歴史的大敗を喫する。

 しかし、その後も日本の侵略は続き、ついにパールハーバーに至る。米国はその平和主義の誤りを知り、軍事に力を入れなかった方針を転換し、強大な軍隊を維持するようになる。アメリカ・ファーストは、一国平和主義から圧倒的な軍事力の保有に意味を変えた。

 共和党にしてみれば、ルーズヴェルトは米国史上唯一4選を果たした強大な政敵だっただけではなく、自らが唱えていた平和主義の方針を転換した存在となったのである。共和党の多くは強大な軍事力の維持に宗旨を変え、ルーズヴェルトが迫られた決断を認めた。これがいわゆる新保守派に繋がるが、一部は政敵ルーズヴェルトに対して根強い疑念を抱き続ける。例えば20年から45年まで下院議員を務めたフィッシュは、議員引退後もルーズヴェルト批判に力を注いだ。フーヴァーもルーズヴェルトの「過ち」を問う回顧録を準備したが、刊行を果たさず、ようやく2011年に日の目を見た。

 一方、パールハーバー後も強固な平和主義を貫く人々もおり、強大な軍事力を持つようになった米国を批判し、第2次大戦全体ひいては米国のあり方そのものに疑義を表明した。例えば、48年、ビーアドが本格的にルーズヴェルトの陰謀を論じたのと同じ年、ミアーズが『アメリカ人の鏡・日本』を刊行し、「(山下奉文陸軍大将が)人口2千人のフィリピンの村を、男、女、子どもを問わず全村殺戮した(以上に)…すでに事実上戦争に勝っているというのに、1秒で12万人の非戦闘員を殺傷できる新型兵器を行使するほうが、はるかに恐ろしい」と説いた。

 ところが日本では、右翼が日本軍国主義正当化のためにこれらの陰謀論に固執した。特に90年代に入ってから盛んになるが、台湾の民主化により蒋介石も含めて右翼の中国批判が可能になったこと、細川政権の成立に伴う右翼の危機感、歴史修正主義の高まりなどが背景にある。こうした動きの影響は小さくなく、92年の初版以来改訂を重ねている通史、松岡完『20世紀の国際政治』(同文舘出版)などでもこの陰謀論が紹介され、特に米国の原爆投下の罪を問うことについては左翼もこれらの主張に連なってしまう。

 しかし米国社会の中から米国自身を問い直すことと、日本右翼が自らの過去の罪から逃げるために利用することは、全く意味が異なる。我々がビーアドやミアーズから学ぶべきは、彼らが戦後直後から変貌する米国に警鐘を鳴らした民主的な精神に他ならない。

 朝日の記事は、慌ただしい中で記者が書いた事件記事などではなく、文化欄の企画記事、つまり部を挙げた会議で承認され、数週間の準備期間を経て経験豊かな編集委員が執筆し、校正等も再三なされた上で書かれている。修正主義の誘惑に屈したと言い得る。

 朝日が、歴史修正主義が蔓延る日本社会のあり方を問うているのならば、よく理解できる。問題は、この程度の新聞が左派とみなされることである。