【進歩と改革2018年3月号】掲載


近代日本とは何だったのか


 はじめに

 安倍政権が称揚する「明治150年」が始まった。賛否が寄せられているが、右派が「日清、日露という2つの戦争を…戦ってでも、日本の独立を守ろうとした」(産経1月3日、主張)などと明治を礼賛する一方で、1月12日付けの朝日新聞「天声人語」が「明治という時代に、当初から膨張への志向があったことを忘れてはなるまい」と書くように、焦点はもっぱら明治政府の対外姿勢にあてられている。明治政府がその最初期から台湾事件、江華島事件、琉球処分などを次々に起こし、最後は米国にまで侵略の手を伸ばした以上、当然の指摘ではある。

 その一方で、安倍政権が設置した「明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に遺す取組に関する検討会」が2017年6月に発表した報告書のような指摘は、あまり問題にならない。これは、「明治以降、近代国家への第一歩を踏み出し…短期間に立憲政治を確立した…日本は、非西洋諸国の民主化・自由化のフロントランナーであったとも言えよう。今なお、民主化・自由化がスムーズに進まず、立憲政治の確立に課題がある国が存在することに鑑みれば、日本の経験と知識は貴重であり、普遍的意義を有する」と説くのである。

 しかし、単なる膨張志向に留まらず、日本近代のあり方そのものが矛盾を抱えていた。現代の文脈からも特に問題なのが、反近代性、宗教国家性、非論理性、そしてこれらが世界に与えた影響である。本欄ではこれまでも米国の視点などから日本軍国主義を取り上げてきたが、現代に向けて「明治」が持つ意味を改めて簡単にまとめる。

 一 反近代としての明治

 1868年1月3日、「明治政府」の主要な起源である王政復古の大号令が出される。これは文字通り古代王政への復帰を目的としたため、中央官庁の役職としても古代律令制の名称である大臣が、官庁の名称としては省が用いられ、69年には古代の官庁名がそのままに設置されるなど、現実の政治的目標としても古代律令制の復活が目指された。一般に近代は中世の王政への批判から始まるが、日本の近代は逆の方向を向いて始まったのである。

 このような反近代性とヨーロッパ近代の間の矛盾が、明治政府初期の攘夷と開国が錯綜した時期に顕著だっただけならば事態は異なるが、明治体制を通じて続いた。逆説的だが、例えば吉野作造が、民衆(demo)による統治(cracy)を意味するデモクラシーの訳語として、人民主権を意味する「民主」ではなく、天皇が権力を持つ政府が政治目標を人民におく意味から「民本」を用いたり、美濃部達吉が、絶対権力を持つ大日本帝国憲法における天皇を近代的制度としての国の間の整合性を図るために天皇機関説を唱えたことなどが、このことを象徴する。これらは明治政府の反近代性を近代の理屈とすり合わせようとする体制内の努力だった。もちろん、制約の中で彼らが主張を試みた面もあるが、他面では、他国が理解できない非合理な日本独自の理屈を最もらしく説明しようとしたと言っても良い。ともに、大正デモクラシー、つまり明治の反近代性とヨーロッパ近代性の間の矛盾が最も小さくなったはずの時期を象徴する学者であることに、その根深さがある。その美濃部が第2次大戦後に反動化するのは当然だった。

 ところが政府の検討会は、これを「民主化・自由化のフロントランナー」と単純に評する。さらに、1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌年に国会が開会したことを「短期間に立憲政治を確立した」と讃えるが、この直後から日本は本格的に他国に戦争を仕掛けるようになり、94年には日清戦争を始める。明治政府にとって立憲政治とは、反近代を抱えたまま表面上の体裁を整えて植民地主義の一員として戦争を仕掛けることでもあった。

 むしろ注目すべきは、帝政を倒しアジア初の共和制国家の樹立をもたらした辛亥革命後の中国が分断の危機に直面したことに対して、日本は強力な帝政の下で統一を推進し、軍事化や工業化に成功したことだろう。20世紀後半以降の視点から見れば、近代日本は「民主化・自由化」ではなく開発独裁のフロントランナーだった。  このような姿勢は現代も続き、人権問題などを軽視し、独裁的な政府であっても経済関係を重視した。そしてその正当化のために、「日本は、人権状況の改善のために現実的な方法を重視しており、その筆頭は対話」(高村外相 1998年、国連人権委員会)等と繰り返し、ロヒンギャ問題でも河野外相が「ミャンマー政府にしっかり寄り添って支えたい」(朝日 1月14日朝刊)と、「民主化・自由化」よりも開発独裁と国家統一の重視を表明する。日本社会全体も、経済利益を国益と称してこれを容認する。

 ただし、同様に開発独裁である中国には警戒を隠さない。民主化を制限しながら工業化に成功した明治の特質を引きずりつつ、その明治が侵略した中国を例外化するのである。確かに、多様な意味で明治は現代日本に生きている。

 二 宗教国家としての明治

 1868年4月5日、神仏分離を命じる太政官布告が出され、69年6月29日には靖国神社の前身である東京招魂社が設置され、70年2月3日には大教宣布の詔が発せられ、明治政府は、天皇を神とし、神道を国教として、宗教と政治を一致させることが表明された。「百度維れ新なり」と称しながら古代王政への回帰を図るこの体制は支配原理の中心に宗教を据えたのである。一般に近代化は非宗教化を伴うことが多いが、日本では根本的に異なっていた。近代日本は、政治と宗教が一致していたとされる古代王政を理想として宗教を再編する、宗教国家として発足した。

 この動きは廃仏毀釈、つまり異教への弾圧として過激化する。特にいわゆる尊皇派だった鹿児島などでは寺がなくなるほど徹底され、「徹底的に廃仏毀釈を行ひ神道のみを以て藩内の信仰を統一せんとし」た(『鹿児島県史』)。この県史は、明治体制が狂信的な宗教国家としての本質を明らかにする最終段階を迎える1941年に発行されたが、象徴的である。この結果、幕末に1600六百余あった寺院は全てなくなり、神社が創建され、神体も新たに作られた。現在見る寺院はその後再興されたもので、仏教施設が意識的に破壊された結果、鹿児島には国宝建造物が存在せず、他の文化財を含めても近世以前は貧しい状態となった。程度の差こそあれ、同様のことは全国で展開された。

 キリスト教も弾圧の対象となったが、ヨーロッパで批判されるこの弾圧を条約改正の環境作りのために弱めざるを得なくなる。この結果、高校の教科書などでも神道の国教化が断念されたと書かれる。また政府が、天皇崇敬は自然なことで国家神道は宗教ではないと強弁したことから、近代日本を単純に宗教国家とは呼ばない傾向もある。

 ただし日本政府はその後も宗教国家としての施策を進めた。全国民が神社の氏子となることが強要され、全ての神社は国によって再編され、等級化が進められた。またその一方で、神社関係の経費増加に対応するために、1906年には神社合祀令が出された。南方熊楠がその惨状を「合祀は地方を衰微せし」め、「史蹟と古伝を滅却」し、「天然風景と天然記念物を亡滅す」ると批判したのはその翌年の事である。神道が宗教国家の支配原理として人為的に再編される過程にあった以上、文化財や自然環境の破壊に繋がるのは当然だった。これは現代的に言えば行革だったのだから。体制が確立し、宗教性が弱まる中で支出削減を目指したからこそ、その本質が露わに示され、熊楠が嘆くことになる。そしてこれと併行して1901一年には台湾神社が、19年には天照大神と明治天皇を祀る朝鮮神宮が官幣大社として作られ、満州やいわゆる南洋諸島などを含めて国家神道は植民地の支配原理として推進される。

 これは、アジア初の共和国である中華民国が建国され、ロシア革命が起きた時期でもある。近代日本は前者への侵略を強めた上に、後者にも露骨に介入し、革命に干渉した国々の中でも最大の軍隊を最長期間送り込む。政府の検討会が「非西洋諸国の民主化・自由化のフロントランナー」と評する近代日本は、アジアでより民主化を進める国が登場した時に民主化・自由化を抑圧する先頭に立った。

 こうした宗教国家としての本質は、その最終段階で現人神を守るために人命すら無視することで明らかになる。その最大の犠牲の一つが、宗教原理主義の先頭に立った鹿児島がかつて影で支配した沖縄となったのは象徴的だった。

 2017年5月号で紹介したように、ジャーナリスト、アンドルー・ルースは、国家神道について第2次大戦末期に次のように表現した。「戦いへの動機として、これはナチスのアーリア人覇権ドグマを遙かに凌いでおり…好戦的なモハメッド主義の宗教的な熱狂により近い。…戦争で死んだ者は天国に入ることを許されるとされるモハメッド主義の兵士と同じく、日本兵は靖国神社に祀られることが保証されると考える。要するに、日本の天皇崇拝カルトは、兵士がそのために戦う福音的な信条と、戦闘で死ぬことへの特別な誘導を併せたものであり、侵略を補助する思想である。天皇カルトは無慈悲な軍国主義の宗教である。」

 ルースのイスラムに関する言及は、時代の制約はあるにしても偏見に満ちているが、日本軍国主義については的確である。そして明治と類似する動きは20世紀後半に新たな装いで、いわゆるイスラム原理主義として復活する。組織的な文化財破壊や伝統宗教の復活を取り繕いながら人為的に再編する動きは近代日本の姿に他ならない。そして、自爆テロ、少年兵、捕虜虐待、民間人への非人道的処遇、麻薬による資金の獲得、生物化学兵器の使用なども、全て日本軍国主義に起源や例がある。IS関係者などが日本の特攻を語り、欧米で自爆テロがカミカゼと報じられるのは、両者を関連付ける認識が一般的であることを示している。この点では、明治は現代世界に大きな影響を及ぼしている。

 三 論理を否定し特殊化する明治

 2000年代から、「“国家事業”としてユダヤ人絶滅政策を進めたナチスドイツと、日本とでは立場が違う」(2005年5月8日 読売新聞社説)等の主張が目立つようになる。90年代半ばから活発化した歴史修正の動きだが、戦後50年の当時は読売も、新しい教科書を作る会の西尾幹二と「アジア女性基金」理事の大沼保昭のコメントを併記していた(95年5月9日朝刊 「戦後50年決議総点検」)。それが明確に姿勢を変えたのである。これは中立派や左派へも影響を及ぼし、「日本が抱える負の歴史は果たしてドイツと同等なのか…私なりに下した回答は…ノー」(2015年8月4日 毎日新聞「論説の目:私たちは何者か、を問う夏」)等の表明も表れる。

 もちろんナチスと、自国の民間人の命までをも軽視し、自爆攻撃にまで至る日本軍国主義は同じではなく、ナチスも自爆攻撃を検討したがヒトラーは認めなかった。彼の思想は異常だったが、それでも自民族の優越性を主張する以上はその若者を自爆させることはせず、最後までそれなりの整合性を保っていた。またはナチスは、国民に説明するためにその主張を科学的に説明することに力を注いだ。それはその主張の普遍化を試みることでもあった。

 ナチズムが21世紀を迎えても特にヨーロッパ各国で根深い影響を持ち続ける理由の一つはここにある。ナチズムを批判するにせよ支持するにせよ、論理的な体裁と整合性を装うこの理屈は他の社会が理解可能なのである。

 ところが日本軍国主義は、天皇制とヨーロッパ近代の間の溝を埋めようとした美濃部達吉らをも批判する。1937年に文部省が発行した『国体の本義』は、「帝国憲法は,万世一系の天皇が「祖宗に承くるの大権」を以て大御心のまゝに制定遊ばされた…「みことのり」に外ならぬ。…(天皇機関)説の如きは,西洋国家学説の無批判的の踏襲といふ以外には何らの根拠はない。天皇は,外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせらる御方ではなく,現御神として…この国をしろしめし給ふ」と説明し、憲法が近代法ではないことを宣言してしまう。日本社会の外の人々が理解できないことを自ら認めたのである。

 近代日本を立憲的独裁と評することもあるが、私は違和感を感じる。宗教支配に基づく反近代的な体制を近代法の体裁に落とし込んだのが明治憲法であり、そもそも立憲とは言い難かった。しかもそれを平然と「みことのり」と言い放ち、いわば解釈改憲するのだから。そして、論理的な整合性をそれなりに尊重せざるを得ないナチスが憲法を事実上停止させたのに対して、日本では停止することなく自爆攻撃を行い得たのである。前者が民主的なワイマール憲法、後者が反近代的な憲法であるにしても、差は大きい。  結果的に経済発展の経験を除くと近代日本の思想は日本の外では広がりを持たなかった。近代日本と最も強い類似性を持つのは北朝鮮だが、大きく異なるのは、キム一族による独裁を正当化するために、普遍的な装いを凝らした主体思想を生み出し、世界的な広がりを持たせようとしたことである。それは実態とかけ離れて理解されたにしても、日本と比べると大きな違いがある。

 先に近代日本とISなどが類似していると述べたが、この点で両者は異なる。ISには、少なくとも一時期は世界各地から幅広い支持が寄せられており、日本の影響は手段のレベルに留まるのである。ISは、手段としての影響を受けるが思想的には異なり、思想的に影響を受けた北朝鮮は日本とは異なる理屈を構築する、ここに近代日本の支配原理の絶望的な非論理性が象徴されている。

 おわりに

 現在の日本右派は合理性を装う説明を試みている。もちろん、いわばフェイク・ニュースの羅列だが、それにしてもようやくヒトラー程度の合理性に日本右派も近づいてきたことになり、右派への支持が若年層に広がる背景の一つである。ただしこれは、近代日本を合理的に批判する共通基盤にもなり得る。問題はそうなっていない点にある。また、近代日本の主張の中で最も普遍的な装いを凝らしたのは大東亜共栄圏だろう。だからこそ、これを現代的に言い直した東アジア共同体を論じる際には近代日本への注意が欠かせないが、右派と左派が安易に同居する傾向も強い。これらのことは、左派が抱える問題も示している。

 一方、アジアに影響を与えた近代日本の経験は開発独裁だが、韓国や台湾で政権交代が日常化し、東南アジアが地域協力を進め、核兵器禁止などにおいて主導的な立場をとるなど、近代の姿を引きずる現代日本をすでに越えている。

 また、1920年代は欧米諸国が平和を追求し、国際連盟、常設国際司法裁判所、海軍軍縮条約、不戦条約などを次々に実現していた。ここで満州事変を起こしてこれを根本的に否定し、さらに平和を主張していた米国をも攻撃して、米国の平和主義の息の根を止めたのは日本であり、ナチスではなかった。日本はナチスとは異なるなどと平然と主張される背景には、このような視点が弱いこともある。積み残されている問題は多い。