【進歩と改革2018年12月号】掲載


リベラルの歴史認識



 日本外交が十分に問われず、論点が歪む背景には、リベラルが日本外交を対米追随で結論付け、米国批判を中心にしてきたことがある。ここで問題をさらに複雑にしたのが歴史認識問題である。米国は日本軍国主義の被害者だが米国の第2次大戦における犠牲は約41万人に留まる(!)上に原爆を投下したことから、被害者としての日本軍国主義を語ることが可能になったのである。また、右派に対して、リベラルは日本軍国主義の主要な犠牲者だったアジアを重視したが、これがために日本軍国主義が世界全体に与えた影響に目を向けにくくなったことも重要である。そこで、これまでも本誌で断片的に触れてきたが、日本リベラルの言説から、歴史認識から現代認識までを整理する。

一 他者に向けた視点の歪み

 2001年2月、藤原帰一・東京大学教授の『戦争を記憶する』(講談社)が出版された。97年に「新しい教科書をつくる会」が結成され、2000年に産経新聞系列の扶桑社がその中学歴史教科書と公民教科書を検定申請する一方で、米国では、スミソニアン博物館が広島に原爆投下したエノラゲイの展示を企画した際、原爆に批判だとして反発が起きていた。こうしたことを受けて書かれた本書は、全体的には好意的に受け止められた。

 しかしその内容は奇妙で、藤原は、広島の平和記念資料館とワシントンのアメリカ・ホロコースト記念博物館の比較から記述を始めるのである。一方は日本の被害を、他方はナチス・ドイツによる加害を主に展示することに加え、米国はホロコーストの直接の犠牲者ではなかった。もちろんそれから逃れてきた人々を多く受け入れたが、その実態が明らかになったのは主に戦後だった。

 もし、ワシントンの博物館が日本軍国主義の加害を展示しているのならば、藤原の理屈をまだ理解できる。日本では、日本の加害の展示をめぐって対立が続いており、99年に東京千代田区九段に国立の施設として開館した昭和館でもこの点が問題になった。エノラゲイの展示でも同様だった。またはドイツの被害、例えばドレスデン爆撃の被害や、新たにポーランド領となった地域から追われた人々の苦難をドイツがどのように描いてきたのかを、原爆被害の展示と比較するのならば、これも理解できる。

 藤原はこれらの問題を承知した上で、あえてこの二者を並べて論点を浮き彫りにしようとしたのでもない。これは、藤原がパールハーバー爆撃には全くふれず、南京虐殺についても「はじめに」でわずかに言及はするがそれ以上は取り上げていないことに現れている。本書の出版は満州事変70周年、パールハーバー60周年の年だったのだが。

 その上で藤原はナチスが米国社会に与えた衝撃を強調する。例えば、「ナチスドイツ以前のアメリカは、戦後日本とはまた異なる意味で、軍事力への猜疑心が強い国だった。このような構図は、ナチの台頭と第2次大戦によってくつがえる」(29―30項)、「(反戦映画である)『西部戦線異状なし』の発表された1930年から、(ナチスを批判的に描いた)『カサブランカ』の発表された1942年までの間に起こったことは、いうまでもなくナチの台頭である」(84項)と書き、「『チャップリンの独裁者』(1940年)においては、ナチの暴虐に対して立ち上がることこそが正義であるという主張が展開されている」(86項)として、絶対的な平和主義との違いを指摘する。

 ヒトラーが首相になったのは33年だが、当初はアウトバーン建設等を推進することなどで経済面の成果を挙げて、世論の支持を集めた。それは世界恐慌に苦しむ米国にも及び、39年2月にもマンハッタンで大規模なナチス集会が開催された。ナチスがポーランドに侵攻してヨーロッパ全体が戦火に巻き込まれるのはその7か月後だが、世論は参戦に反対を続けた。40年6月にはフランスが降伏するが、3か月後には平和を訴えるアメリカ第1委員会が立ち上がった。中心人物の一人にリンドバーグがおり、後に大統領となる若きケネディやフォードも支持者だった。

 このような中で、藤原が取り上げる「チャップリンの独裁者」も苦難の道を歩む。チャップリン自身の言葉を借りれば、「『独裁者』の制作中から、妙な手紙が舞いこんでいたが、完成と同時に急に増えだした。中には、どこであろうと、上映館に悪臭弾を投げ込み、スクリーンを蜂の巣のように打ち抜いてやるぞというのもあれば、また、暴動を起こしてやるぞというのもあった」(『チャップリン自伝』471―472項、新潮社、1966年)。チャップリン研究者として評価の高いデイヴィッド・ロビンソンも、「独裁者」が公開された後の様子を「1941年という年は暗雲がたれこめた幕開けだった。新作の批評と大衆の評価はさまざまで、合衆国での親ナチ感情の強さにチャップリンの苦悩は増大した」と表現する(『チャップリン』下216項、文芸春秋社、1993年)。

 こうした状況を根底から覆したのが、パールハーバー攻撃であり、アメリカ第1委員会もその直後に解散する。そもそも米国が尽力した不戦条約を、31年つまり発効から2年後に満州事変を起こして最初に踏みにじったのも日本だった。さらにナチスのポーランド侵略の2年前には盧溝橋事件を起こして中国を全面的に侵略し始めていた。米国社会の意識を変えたのは何よりも日本軍国主義だった。  2000年代から、「組織的・計画的に、戦争とは別次元の“国家事業”としてユダヤ人絶滅政策を進めたナチスドイツと、日本とでは立場が違う」(2005年5月8日、読売新聞社説)等の主張が目立つようになる。この10年前には、読売は、新しい教科書を作る会の西尾幹二と「アジア女性基金」理事を務めた大沼保昭のコメントを併記していた(九五年五月九日朝刊 「戦後50年決議総点検」)が、姿勢を変えたのである。右派のこのような主張はリベラルへも影響を及ぼし、「日本が抱える負の歴史は果たしてドイツと同等なのか…私なりに下した回答は…『ノー』」(2015年8月4日 毎日新聞「論説の目:私たちは何者か、を問う夏」倉重篤郎)と言うに至る。少なくとも結果的には、藤原はこのような動きを先取りしていた。

 藤原は「朝鮮人被爆者などの悲劇に目が向けられるまで、かなりの時間がかかったことも、平和主義とナショナリズムの結びつきを裏書きしている」(146項)とも語るが、この指摘が最も当てはまるのはこの本だった。

二 推論の飛躍と無視

 米国への意識は法的な議論にも影響を与える。2014年に集団的自衛権に関する政府の憲法解釈の変更が閣議決定され、一五年には安保法制が成立するが、この際も、米国が恣意的に軍事行動を起こせるように集団的自衛権を国連憲章に盛り込んだと指摘する声があったが、これに影響を与えたのが、祖川武夫・東北大学教授文だった。

 米英中ソが作成した国連憲章の原案はいわゆる国連軍を平和維持の手段として規定する一方、軍事同盟を結ぶ権利である集団的自衛権は盛り込まなかった。これに対してラテン・アメリカ諸国が、国連軍が活動するまでの暫定措置として各国が個別的または集団的に自衛権を行使する権限を認めるよう提案し、認められた。祖川はこれについて、「中南米諸国の、地域システム全体としての自律性の原則的な承認の要求から、アメリカ合衆国の『会議』外交における強大な指導性によって、結局、地域的共同防衛行動の自由という形像が、しかもそれだけがまさに develop された」(祖川武夫編『国際政治思想と対外意識』、祖川「集団的自衛権―いわゆる US Formula の論理的構造と現実的機能」440項、創文社、1977年)とし、「(国連憲章起草会議や検討会議に参加し、日本との平和条約を締結したサンフランシスコ会議にも国務長官として参加した)ダレスは、すべてを冷戦コンテクストにおいて見ているわけであり、単独占領や分割占領を基礎に旧敵国を組み入れた軍事ブロックが形成されることをあたかも予見しているような条項解釈を述べている」(441項)と結論付ける。つまり、米国が、後に起こる米ソ対立を前提として国連憲章に集団的自衛権を取り入れたと推論するのである。

 国連憲章の審議が始まったのは1945年4月25日だった。30日にはヒトラーが自殺し、28日にはムッソリーニが処刑されるが、沖縄では戦闘が続いており、審議においても、日本軍国主義の侵略に恐怖していたオーストラリアやニュージーランドが暫定措置ではなく無条件で「集団的抵抗権」を憲章に盛り込むことを求め、採択に必要な2/3の賛成こそ得られなかったが、過半数を得た。集団的自衛権はこのような中で採択された。一方、米国は自爆攻撃に日々犠牲者を増やし、子ども兵の自爆攻撃すら展開する日本軍のゲリラ攻撃に苦しみ、ソ連の対日参戦を求めていた。6月18日にひめゆり部隊に解散命令が出されるが、犠牲者の80%は地下壕を放り出されたこの後の1週間に集中した。23日に沖縄で組織的抵抗が止むが、国連憲章が署名されたのは26日だった(いずれも現地時間)。

 祖川の推論が成り立たないわけではない。しかし、日本軍国主義の侵略が世界に与えた衝撃そして沖縄戦の異常さと悲惨さから目を背ける役割を持っていることも無視できない。何より、ダレス以上に祖川の方が安保体制の「コンテクスト」から過去を見ていると言わざるを得ない。

 しかしそれでも祖川は断定を避けているが、彼の主張が引き継がれる中で、調子が変化する。松竹伸幸・日本共産党中央委員会政策委員会安保外交部長は「この経緯を詳細に研究した祖川武夫」に基づいて、「アメリカとソ連こそが、その(集団的自衛権)推進者だったのである」(『「集団的自衛権」批判』77―78項、新日本出版社、2001年)と断定し、浅井基文・明治学院大学教授も「集団的自衛権は、アメリカが『合法的』に軍事行動をとるための免罪符としてつくりだされたもの」(浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』109項、集英社、2002年)と言うなど、議論が飛躍するのである。

 最も多いのは集団的自衛権の背景にあえて触れない議論で、立場を問わず例が多い。例えば森肇志・東大教授は不戦条約とその後の国際連盟の動きに触れながら日本の動向は取り上げず、満州事変や廬溝橋事件も他の問題と同列に触れるに留まり、集団的抵抗権に関するニュージーランド案にも触れない(『自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開』、東京大学出版、2009年)。具体的で簡便な説明例として、保守系の軍事評論家、小川和久を挙げる。「1918年に第1次大戦が終わると、講和条約(19年)に盛り込まれた国際連盟規約やパリ不戦条約によって、戦争は「違法なもの」として制限されるようになりました。同時に、認めてもよい合法的な戦争は「自衛のための戦争」だけで、その戦争をする権利はどの国にもある、という考え方が広まっていきます。この考え方は、第2次世界大戦後にできた国際連合にも受け継がれ、国連憲章第51条で「個別的自衛権」という固有の権利(すべての国がもともと自然に持っている権利)として認められています」(『日本人が知らない集団的自衛権』23―24項、文春新書、2014年)。ここには日本軍国主義のかけらもない。

三 責任転嫁としての陰謀論

 米国が陰謀をめぐらしているとする主張も後を絶たない。孫崎享・元イラン大使は、2001年の9・11テロについて、ブッシュ大統領が「今日21世紀のパールハーバーが起きた」と口述させたことから、9・11を読み解く。つまり、41年当時、米国政府は対独開戦を望んでおり、戦争に反対する議会や世論対策としてパールハーバー爆撃を歓迎した。9・11も、ブッシュは事前にこのような危険性について報告を受けていたが、軍事費の増強を目指していたため、あえて無視したとして、陰謀論の重要性を指摘する(『日米同盟の正体』、2009年)。

 9・11をブッシュの陰謀とする主張は米国内では多く見られた。その背景には、米国社会が中央政府を必ずしも信用していないこともある。中央政府は自分たちの声が届かない、信用がおけない存在と考える傾向が強く、政治家が中央政府で豊富な経験を積んでいることも、選挙ではしばしばマイナスに作用するのである。上院議員になって間がなかったオバマが大統領選に勝利したこと、政治経験が皆無のトランプが、米国初の弁護士のファーストレディー、上院議員、国務長官と極めて豊富な政治経験を持つヒラリー・クリントンを破ったことなどはその一例に過ぎない。大規模な予算を持ち秘密事項を多く抱えるCIA、FBI、NASA、連邦軍などは特にその不信の象徴となり、CIAがケネディ暗殺に関与した、軍は宇宙人を隠しているなどの主張は様々なレベルで根深く、絶えることがない。

 ただしそれは民主制の裏返しでもあることに注意しなければならない。一人一人が中心のはずだからこそ、その個人から遠い政府に不信の目が向けられること自体は、悪いわけではない。特に政府へのチェックが適切に行われる場合にはなおさらで、その場合には陰謀論にも意義がある。

 問題は、中央集権的で、権威的つまり非民主的でしかも恥ずべき近代の歴史を持つ社会が、自らは巨大な力を持ちながら、それを検証する動きが弱いままの状態で、米国に操られているとの被害者意識を抱きながら、そのような陰謀論を受け入れることにある。陰謀論は、自らの過去から目を背けたり、現在の政府を問うことからの逃避に繋がるからである。ここに孫崎の問題がある。

 そのような主張が右派でのみ強いのならば問題が異なるが、孫崎はリベラルから支持されている。また右派が固執するパールハーバー攻撃に関する米国の陰謀論も、4月号で論じたように、リベラルとみなされている朝日新聞が大きく取り上げたり、本誌2017年3月号で指摘したように、主要な雑誌の中では最も進歩的とされる『世界』が、「菅政権は、米“安保マフィア”と官僚と財界とメディアにひたすら従順である。大転換の旗は密かにたたまれ、それまで聞いたこともないTPPなど、異様な旗が立てられた」(2011年4月号編集後記)と主張する。『世界』のTPP論が、自由貿易で巨大な利益を得てきた日本経済そのものへの批判を伴うのであればまだしも、それすらない。

 2013年3月、『世界』別冊で佐藤優・元外務省主任分析官が「民主党外交はなぜ失敗したのか」を寄稿する一方、2月28日、彼は名古屋「正論」懇話会で日本外交について講演した。「正論」懇話会は、産経が出版する『正論』のいわば読者会で、事務局を産経社内に置き、17年6月には神戸「正論」懇話会に安倍晋三が出席して加計問題などについても発言した。その懇話会と『世界』が同時に同人物の主張を展開して何も感じるないのならば、両者には外交について大差がないことになる。

 ところが、日本軍国主義を反省して作られたはずの日本国憲法の対外関係規定である9条に関しては、両者は正反対の姿勢をとる。ここに、日本の護憲派の内向きで民族主義性がある。自国外交を批判的に検証して、環境、人権、平和的紛争解決など、「国」を越えた論点を提供するのがリベラルの存在価値だが、それが出来ないのならば、日本リベラルは何のために存在しているのだろうか。