【進歩と改革2018年11月号】掲載


安倍政権長期化の背景



 はじめに

 安倍の自民党総裁3選が決まり、日本史上、最長の政権となる可能性も出てきた。しかし、実は安倍は1期目に続いて2期目も短期で終わる可能性が高かった。その最大の原因は、安倍の歴史認識さらにはイデオロギーそのものが、米国を含む先進国と全く相容れず、外交が成立し得ないことにあった。前号では、安倍が外交成果を誇っているにもかかわらず外交が問われないこと、そして外務官僚が天皇との関係を持つ特殊な存在であることを指摘したが、今回は改めて日本右翼の歴史認識と外交について整理したい。

 1 国際社会から見た日本軍国主義

 岸、中曽根、小泉、そして安倍のような右翼政権は、日本軍国主義への支持を露わに示すと同時に、良好な日米関係を誇ってきた。そして彼らの軍事政策さらには彼らが悲願としてきた集団的自衛権の行使ひいては改憲は、リベラルからは、彼らの日本軍国主義への近さと米国の要請が一致しているためと認識されることが多い。つまり、日本軍国主義と米国の軍事戦略を類似しており、米国政府はこれらの右翼政治家を歓迎し、またこれらの政治家も積極的に米国の要請に応えてきたのであり、対米追従だと評することが今も一般的である。右翼自身も自分たちの歴史認識は米国保守派と近いとみなす傾向が強い。しかし、これらは何重もの意味で間違っており、日本軍国主義は米国の理念とは全く相容れない異常なイデオロギーだった。これまでも本誌で触れてきたが、念のために改めて整理する。

 第1次世界大戦は、それまでヨーロッパが経験してきた戦争とは大きく異なり、近代的な大量殺戮兵器の大規模な投入により殺戮と破壊の場と化した。そしてそれを煽ったのが、民主化が進む中で強まっていった民族主義的な愛国心だった。19世紀の成果である産業革命と民主化がこのような戦争を生み出したことに対して、米国は、戦後、国際社会の制度化による平和の確立に努め、1920年の国際連盟、21 年の海軍軍縮条約、22年の常設国際司法裁判所設立などを主導し、さらに28年には不戦条約を成立させた。特に不戦条約は、当初フランスが米仏2国間で締結することを求めたのに対してあらゆる国が参加できる多国間条約とすることを求め、この条約に消極的だった日本にも強く参加を促し、国際連盟の全理事国を含む15カ国を署名国として条約の発効にこぎつけた。

 しかし日本は、不戦条約を国際連盟規約に組み入れるための改正を審議していた31年に満州事変を起こした。日本は批准に先立っても「北満州ニ於テ治安ガ攪亂ヲセラレルト云フコトデアレバ、日本ハ此自衛権ノ発動ニ依ッテ必要ナル處置ハ執リ得ル、斯様ナ場合ニ不戦条約ノ拘束ハ受ケヌト考ヘテ居リマス」と田中義一首相が答弁し(1929年1月29日、帝国議会貴族院)、国際連盟に対しても連盟規約の「改正案が自衛権の行使にはいかなる影響も持たないと了解の上で、これらの改正に原則として賛成する」(31年6月30日付書簡)と繰り返し、リットン調査団の報告書に対しても松岡洋右が「委員会は『この夜の日本兵の軍事活動は合法的な自衛措置とは見なせない』と述べているが、我々は合意できない」(国際連盟理事会、32年11月21日)と、中国侵略を自衛権と強弁していた。

 米国では、37年に日本が全面的な中国侵略を始めても、39年にナチスドイツがチェコやポーランドに侵攻しても、孤立主義すなわち一国平和主義を支持する世論が多数を占めていた。しかし、41年、日本のパールハーバー侵略によりこれを棄てざるを得なくなる。孤立主義を支えていたのは保守派だったが、その主張が誤っていたことが証明されたことから、戦後は戦争をも辞さない考えに劇的に変化した。その文脈の上に、米国はソ連を日独の軍国主義にも劣らない侵略的な独裁体制と認識するようになる。

 2 日本右翼の歴史認識と米国

 日本の民主化を迫られた米国にとって、吉田茂は比較的自由主義的な反共主義者として相手になり得た。しかし、対中、対ソ関係の改善を唱えて日ソ共同宣言を実現させた鳩山一郎や、平和主義の石橋湛山は、米国から見れば共産主義の脅威を理解しない者に他ならず、米国は対応に苦慮することになる。とは言え、東条内閣で商工大臣を務め、対米戦争の物資の動員を扱った岸に対しても激しい反発が生まれるが、「勇敢な共産主義反対の政治家」(『アイゼンハワー回顧録 2』、415項)として、説得した。ただしこれは、大部の回顧録の中で記された岸に関する唯一の評価で、それ以外の評価は与えられなかった。米国は日本軍国主義者を歓迎しなかったが、日本の有力政治家は反共≒日本軍国主義だったために、ソ連の脅威を理解しない首相よりもまだ「まし」だったに過ぎなかったのである。

 当然のことながら、冷戦が終わり、「勇敢な共産主義反対の政治家」が求められなくなる、またはこれが日本軍国主義の支持者であることを見逃す言い訳として通用しなくなると、改めて歴史認識が問われるようになる。しかも、韓国が民主化することでこの問題の意味が従来とは新たになり、さらに欧米からも問い直しがなされ、日本が放置してきた戦争責任が重要な意味を持つようになった。

 さらに当時は、冷戦後の秩序維持に対する日本の役割を求める必要との関係も生じたことから、歴史認識は一層見過ごせない問題となった。例えば、レーガン政権からブッシュ政権の下で国防長官補、米国政府の対外宣伝放送であるヴォイス・オヴ・アメリカ政策部長、海軍副事務次官などを歴任し、新保守派の中心人物の一人だったセス・クロップセイは、湾岸戦争を受けて日本政府が自衛隊をPKOに派遣する国際貢献論議で沸騰していた91年11月に報告書を発表し、石原慎太郎、藤尾正行、奥野誠亮ら、当時の極右政治家の発言を「言語道断な主張」と断じて、「日本が過去を過ちだったと認める時、世界は日本が完全で活発な一員として国際社会に参加する準備があると認めるだろう」と主張した(Seth Cropsey, "On the Pearl Harbor Anniversary, Japan Still Says 'Don't Blame Me'", November 30, 1991, Heritage Lecture #353)。

 つまり、軍事的な分野で日本が行動するようになることと、日本が日本軍国主義への否定と精算を進めることは密接な関係を持った。冷戦後にPKO協力法を成立させて自衛隊をPKOに派遣できるようにし、また国連安保理常任理事国を目指すことを表明したのは宮沢内閣だが、それと同時に、慰安婦に関する河野官房長官談話を発して歴史認識問題の解消に努めたのは、当然のことで、この両者は切り離せるものではなかったのである。

 また、河野談話が出される半年前の93年2月22日にカナダの負傷兵のNGOが国連人権委員会で日本の戦争責任について発言し、2月25日には韓国でキム・ヨンサムが大統領に就いて、パク・チョンヒ以来の軍事政権が終わるなど、欧米からの批判が活発になると同時に、軍事政権が封印してきた近隣諸国の批判が新たな段階に入ることが明らかになった。軍事力強化を進める中曽根を高く評価したレーガン政権の主要官僚が、パールハーバー50周年に際して発表した文書だけに、冷戦後の米国で日本右翼の歴史認識がいかに問題にされていたかが分かる。

 しかも90年代は、冷戦の終焉を受けて軍縮、紛争の平和的解決、経済社会問題など、冷戦期には日米などにより議論の中心から追いやられることが多かった問題を、中小国やNGOが積極的に推進し、しかも成果を挙げていた時期だった。その問われるべき問題の中には日本の歴史問題も、また日本外交が何をしようとしているのかもあった。

 ところがこの頃から日本では右翼的な主張が声を挙げ始め、瞬く間に一大政治勢力に成長した。そのような中で、自社さ連立政権下で進められたのが行政改革だったが、日本外交と外務省は議論の対象にすらならなかった。

 3 日米関係を危機に陥れた小泉と安倍

 靖国参拝を公約に掲げた小泉純一郎が自民党総裁選を制したのはこのような中だった。米国は改めて警戒を強め、例えば保守派のシンクタンクで上級研究員を務めていたバービナ・ホワンは、01年の小泉政権発足直後に、「日本の喫緊な外交政策案件」の筆頭に靖国参拝を挙げて、それが日米関係を「深刻に悪化させるだろう」と警告を発した(Balbina Y. Hwang, "Japan's New Reform-Minded Leader: Implications for U.S.-Japan Relations", Backgrounder #1446, Heritage Foundation, June 7, 2001)。ホワンは、2007年よりブッシュ政権で朝鮮問題を担当するヒル大使の上級特別顧問やアジア太平洋問題担当国務長官補佐を務め、ブッシュ政権を支えた。

 これに対して小泉は、9・11後の米国を全面的に支持することで批判をかわした。冷戦中と同様に、過去の歴史認識よりも今の同盟関係が優先されたのである。しかし、米国社会が冷静さを取り戻し、イラク戦争に関してブッシュ政権への批判が高まると、事態は変化する。

 加えて、日中関係、日韓関係の悪化が大きな影を落としていた。民主化した韓国、また92年のケ小平の南巡講話によりさらに改革開放が進められ限定的にではあっても民主化が進んだ中国との関係が悪化し、05年には反日デモも起きたことは、軍事政権下の対日関係とは異なる意味を米国にもたらした。小泉政権期に日中、日韓の首脳会議一度も開催されず、関係が悪化する一途だったことは、米国にさらにやっかいな事態を生み出したのである。

 このような中で登場したのが安倍だったが、彼は自らのイデオロギーが許容されるのか否かすら理解できず、河野談話の見直しを表明し、下院議会が非難決議を採択する事態に至る。1期目が短命に終わった要因の一つだった。

 安倍は12年12月26日に政権に返り咲くが、米国では登場の前からその歴史認識への懸念が様々に語られていた。特に保守派の不安が大きく、「安倍の戦時中の日本の行動に関する歴史修正主義的な見解は確かにやっかい」と、安倍の行動の危険性が指摘され(Bruce Klingner "U.S. Should Use Japanese Political Change to Advance the Alliance", November 14, 2012)、「ワシントンは、安倍が、日本の戦時中の行動に対する従前の認識から離れ、異論の多い民族主義的な目標を目指さないように、私的に助言すべき」、「安倍は……韓国との関係を改善すべき」(Bruce Klingner "Japanese Conservative Victory: A Welcome Development for the U.S.", December 18, 2012)などと求められていた。

 しかし安倍は、「(外交の)機軸となる日米同盟を一層強化」し、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値に立脚」(13年1月28日、所信表明)すると表明するなど、自らと米国の基本認識は共通していると繰り返していた。1期目の失敗を経てもなお、安倍は日米間の認識に決定的な違いがあり、小泉や安倍のイデオロギーそのものが日米関係を悪化させているとは思っていなかった。2月22日にはワシントンでオバマ大統領と会談し、「日米同盟の信頼、強い絆は完全に復活した」と誇るが、それは、小泉以来、「国際貢献」として日本が続けていたインド洋における給油を民主党が止めたことや、沖縄の米軍基地に対する民主党の姿勢が日米関係を損なったとする、日本右派全体の認識を反映した言葉であり、自分が日米関係を損なっているとは全く考えていなかった。

 そして安倍は、政権発足1年後の13年12月26日に靖国に参拝する。自爆テロ、捕虜虐待、宗教文化財の破壊など、日本軍国主義が蘇ったかのような行動をとるISが樹立を宣言するのはこの半年後の14年6月29日だった。安倍の再登板により日米関係は一挙に軋轢を増した。

 そのまま安倍の姿勢が変わらなければ、1期目と同様に政権はもたなかっただろう。しかし、この直後の14年1月7日に、谷内正太郎元外務事務次官を事務局長とする国家安全保障局が発足し、安倍の姿勢は抑制的になる。

 これは、集団的自衛権の行使容認を長年の悲願としてきた外務省にとっても重要だった。13年2月には、元外務事務次官の柳井俊二を座長とする安保法制懇が発足し、8月には小松一郎前フランス大使を内閣法制局長官に据えるなど、着々と手はずが整えられていたが、安倍が日本軍国主義への礼賛を繰り返して短命に終わっては、1期目に続いて、政権とともにこの問題が葬り去られてしまう。

 その後、谷内を中心に、本来ならば安倍が容認できないような動きが進められる。安保法制が国会で成立した9月19日から3か月後の12月28日に日韓外相が慰安婦問題について合意し、さらに16年12月27日にはオバマ大統領とともにハワイのパールハーバーの記念館を訪問するのである。ここでようやく安倍は外交成果を語ることができるようになるが、それは、安倍が自らの信念を曲げてまで米国の意志を忖度した結果だった。

 おわりに

 日本リベラルにとっては、安倍がこのような方向に変質したことは好ましく、そのように誘導した外務官僚たちを批判する必要はなかったのかもしれない。しかし、これが安倍長期政権を生み出す要因の一つとなり、しかも安保法制などの成立に繋がった以上、分析は欠かせないはずだった。そもそも、イラク戦争を支持した日本外交を問わないのが日本リベラルであるのなら、それこそ問題である。

 またここには、日本リベラルの歴史認識の歪みも表れる。日本ではなぜか集団的自衛権ばかりが問題になるが、第1次大戦後に積み重ねられた平和のための努力を日本軍国主義が、踏みにじる名目としたのが個別的自衛権だったことをふまえていない。むしろ問うべきは、日本が個別的自衛権が行使できるか否かなのではないか。

 そして、巨大な中国も敗退を続けるばかりだった異常な日本軍国主義の復活に対して、各国が備えるために行使できる権限が集団的自衛権であることもほとんど顧みられない。そればかりか、戦後の米ソ対立を先取りした米国が、NATOや日米安保などを念頭において集団的自衛権を認めたように論じる者も後を絶たず、むしろそのような主張がリベラルの主流をなしている。そしてその際には、ニュージーランドなどの日本の侵略の脅威に晒されていた国が、集団的自衛権につながる権限の容認を強く求めていたことは、ほとんど言及されない。不戦条約を主導したのが米国であること、それを最初に踏みにじったのが日本であることも、また日本国憲法下の日本が一貫して核兵器を支持し、核兵器使用禁止に反対してきたことについても、なぜか日本リベラルは多くを語らない。そしてその上で日本国憲法を礼賛する記述があふれている。

 日本軍国主義を信用してはならない、これは歴史的に証明された人類が共有する事実である。それを拒否する右翼は軍事面に重きを置いて自国の利益ばかりを掲げる外交を展開してきたが、実は日本リベラルもこうした重たい問いから目を背け続け、日本国憲法は自分たちが生み出したことを強調する余り民族主義的な姿勢に陥ってきたのではないか。第二期安倍政権を長期化させた最大の勢力は、外交を問わないリベラルだった。私はそう思う。