【進歩と改革2017年8月号】掲載


右派新聞の示す危機



 安倍首相の独演会の場を提供した読売新聞が、前川・前文科事務次官を貶める記事を掲載した。そこで読売と産経ら右派新聞について改めて整理する。

 1972年4月3日深夜、蓮見外務省事務官が、沖縄密約情報を漏洩したとして逮捕された。澤地久枝が『密約―外務省機密漏洩事件―』で詳しく紹介しているが、澤地は、このすり替えを担ったメディアとして特に女性週刊誌について述べる一方で、産経についてはあまり触れていない。しかし、産経の対応の素早さは注目に値し、7日発売の『週刊 サンケイ』が「日米密約文書を漏らした外務省の女事務官 彼女をあやつった男は……総裁選にからむ陰謀説も流れるその舞台裏」と題する記事をトップに掲げ、7日の各紙朝刊にも大きく広告を掲載した。

 当時の佐藤首相は、西山記者が逮捕された4日の日記に「この件としては一段落だが、この節の綱紀弛緩はゆるせぬ。引き締めるのが我等の仕事か」と、逮捕によりこの問題が終わったとの認識を示し、8日には「段々中身が明になりつゝあり、西山君と蓮見事務官との男女干係や、大平派と西山君の干係も噂に上る」と、争点のすり替えが功を奏したことを確認していた。

 産経は、戦後、全国紙化を図って東京大手町に本社を構えるが、この際、森友学園と同じく国有地を格安で購入した。その後、経営の悪化と保守系新聞を望む財界の思惑の中で右傾化を強め、1970年には田中角栄自民党幹事長が、「サンケイ新聞は、わが自由民主党の政策を理解されわが党の政策遂行にたいへん御協力をいただいております。……同紙の愛読をお願いいたしたい」と通達する。

 産経の右翼路線はその後も続き、80年代には革新自治体の選挙に合わせて紙面でその自治体を集中的に取り上げて自民党の選挙運動に資する、まさに機関紙となった。さらに冷戦の終焉を受けて日本軍国主義を擁護し始め、98年には「新しい教科書をつくる会」と教科書発行の覚え書きを交わした。自ら「新聞社が教科書づくりにかかわるのは初めての挑戦であるが……読者および国民の支援を仰ぎ、また批判も受けたい」と表明していた。

 産経同様に読売も1963年に大蔵省が読売に国有地売却を決定したが、66年に佐藤首相が売却を撤回したため読売が佐藤批判を紙面で展開し、68年に改めて売買契約が結ばれた。

 読売は正力松太郎社長自らが衆院議員となり、さらに初代原子力委員長に就任して原発を導入する政治新聞だったが、正力自身は紙面で自らの政治主張の展開に力を入れては読者が新聞を読まないことを承知していた。だからこそ、黒田清・元読売新聞大阪社会副部長らの名物記者に活躍の場があった。

 70年代末、渡辺恒雄が論説を支配し始めると社内の空気は一変する。84年元旦には、「進歩派の反核運動は、有効な核軍縮に寄与せず、ソ連の西側分裂工作に奉仕する結果を生む」とする社説を掲載した上に、「この社説は現在まで『読売新聞の今日の社論の基礎的立場』として社内で承認されている」(『読売新聞発展史』1987年)と豪語するようになる。渡辺個人も田中角栄に中曽根首相の実現を頼むなど、影で政界を操り始める。

 読売は、94年に改憲私案を発表し、07年には渡辺が、自民党と野党の民主党との大連立を画策する。また原発再稼働を積極的に主導する紙面を利用した世論誘導も相変わらずだった。

 17年4月7日、筆者の勤務する愛知大学で1年生が主に受講する科目で調査したところ、新聞をほぼ毎日読む者は3・3%だったのに対して、ほとんど読まないが、私の調査では初めて7割を越えた。その一方で、実家でも新聞を購読していないと答える者が前年までの1桁から一挙に17%を越えるに至った。他の大学で調査しても似たような結果であり、今の若い者にとって新聞はそれほど遠い存在である。

 当然新聞の発行部数も急激に減少し、福島原発事故後、第2次安倍政権成立以降で減少部数が最も多いのが朝日で、762万部から100万部以上減らし、減少率も14%近くに至っているが、読売は減少部数96・7万部、減少率9・89%と、まだ穏やかであり、産経に至ってはほとんど減少していない。3か月で電子版の有料購読者数が30万以上増加した。

 日本ではトランプやルペンを馬鹿にしたような論評を多く見かける。しかし、なぜ日本社会が米国社会を揶揄できるのが、私には理解できない。

 その中で興味深いのは、過去と比べても、また72年の沖縄密約問題の際の産経の動きと比べても、今回の読売の動きが雑すぎることである。渡辺独裁体制が末期症状を迎えていることの反映とも言えようが、それだけ読者がなめられているとも言える。読売が示しているのは日本社会の危機である