【進歩と改革2017年12月号】掲載


「橋渡し」とは何か



 総選挙は自公が2/3を越える議席を獲得し、改憲派が80%を越えた。これに対して、安倍続投を望まない者が過半数を示した世論調査もあり、九条改憲はなお賛否が拮抗しているなどの主張もある。しかし所詮は強弁に過ぎない。世論調査でも改憲支持が一貫して増え、国会でも改憲発議要件の2/3が問題にもならないことが常態化していることを直視すべきである。

 今回は、日本外交が何を「橋渡し」してきたのかを紹介する。核兵器禁止条約を推進したNGO・ICANのノーベル平和賞受賞を受けて、リベラル系メディアは、核保有国と非核保有国との橋渡し役を自認してきた日本政府は、今こそ役割を果たすべきなどと改めて繰り返しているが、日本が何を「橋渡し」してきたのかは相変わらず問題にされていないためである。

 核兵器禁止条約が成立に至る過程での大きな成果が、1996年7月に国際司法裁判所が核兵器を原則違法とする勧告的意見を出したことだった。ここで外務省は核兵器を違法と言わなかったばかりか、政府代表団の一員として裁判所で意見陳述を行う広島、長崎両市長に対して、違法とは言わないように要請した。また、日本政府の働きかけにより判事を務めていた小田滋が核兵器を合法とする意見書を書き、さらにはNGOの働きかけがあったことなどを理由にただ一人門前払いを主張した。しかし外務省のこのような動きにもかかわらず、裁判所は核兵器を原則違法とする意見を出した。すでによく知られていることである。

 翌97年には対人地雷全面禁止条約が成立し、NGOがノーベル平和賞を受賞した。しかし外務省は最後まで条約採択会議への参加を拒み、米国の参加表明後、開会の3日前にようやく参加を決めた。会議では、条約を弱めるための修正案を提出し、批判された。

 98年には第2次大戦後長年の課題だった国際刑事裁判所規程が採択されたが、これを推進しようとしたクリントン大統領に対して米国の保守派は強く反対した。米国政府も保守派の意向を反映させざるを得ず、加盟国中最大の代表団を派遣した上で裁判所の権限を弱める提案をした。2番目の規模を誇る代表団を派遣した日本外務省は、全欧が裁判所設立を支持していることに反して、米国保守派の主張を全面的になぞる主張を続けた。規定採択後、日本は記者会見で「対立する各国の間の溝を埋めようと終始試みた」と、その行動を正当化した。核兵器禁止条約に関してリベラルが日本政府に求める「橋渡し役」が発揮されたのである。

 日米の主張は反映されず、米国は規程に反対票を投じた。ただしクリントンはその任期の最後で規程に署名するが、後を襲ったブッシュは署名を撤回した。米国の主張がクリントンの意向の反映と言うよりも、保守派への配慮だったことや、日本の行動が大統領の意向以上に保守派を配慮したものであるばかりか外務省自身の判断であり、それは先進国の中でも異例なものだったことがよく示されていた。

 20年前の事例を顧みたのは、核兵器の違法性の審理が始まった85年は村山内閣、意見が出され、対人地雷禁止条約締結会議が開会した96年は自社さ連立下の橋本内閣だったためである。社民は98年5月に閣外協力を解消し、刑事裁判所規定が採択されたのは7月だったが、それにしても、これらの出来事は社民(社会)党が政権に関わっている中で相次いでいた。タカ派政権の意向を受けて外務省が行動していたのではない。むしろ政権の意向を無視して、これらの軍縮や人権擁護の動き強く警戒し、活発に「橋渡し役」を演じていたのである。

 対人地雷禁止に批判的だった外務省だったが、小渕外相は積極的な姿勢を見せて、署名に踏み切る。もちろん、小渕の政治主導は高く評価すべきだが、それは、それまでの外務省の姿勢が政権の意向に基づくものだったのか否かを疑わせ、外務省の責任が不問にできないことを示した。もちろん、外務省を統制できなかった自社さ政権の責任、問題にもしなかった報道機関の責任も極めて大きい。しかも、外務省が理由を上げて対人地雷禁止に反対してきたにもかかわらず、外務省が主張する不利益が起きなかった。そうであるのならば、外務省の判断は全く信頼がおけず、その勝手な振る舞いは厳しく批判されなければならないことになる。

 ところ朝日は、「対人地雷廃絶語り合う『オタワの顔』」の見出しの下で、ノーベル平和賞を受けたNGO代表と小渕の座談会を掲載した(98年2月7日、朝刊)。条約成立を妨害し続けた外務省を問わず、小渕を讃えることで論点をそらしたことになる。

 こうした美化を経てイメージが作られた平和国家に危機が迫っているのならば、改憲やむなしの割合が高まるのも当然だろう。8割の改憲派を生んだのは護憲派ではないのだろうか。