【進歩と改革2017年10月号】掲載


核兵器使用禁止条約と「核の傘」



 7月7日、核兵器使用の威嚇も禁止した核兵器使用禁止条約が採択された。威嚇の禁止は当初案では明記されておらず、もし日本が交渉過程に参加していたら、6月号で取り上げたようにこの阻止に全力を挙げただろう。これが奏功した場合には禁止条約は不十分なものとなり、歴史的汚点を残した。

 しかし条約が成立した以上、日本政府への批准要求に遠慮はいらない。ところが、日本の交渉参加を主張をしていたリベラル系メディアなどは、成立後はむしろ政府の見解に一定の理解を示し、毎日は「条約が核抑止力の核心である『使用の威嚇』も否定したことで、未締結国が後に加わる道筋は遠のいたと言えるかもしれない。しかし、……核兵器の先制使用をためらわせる抑止効果があろう」と述べる(7日付社説)。朝日は「『核の使用をちらつかせる脅し』が禁止対象に加わった。核保有国はもちろん、核の傘の下の国が条約に入るのは困難になった。……日本は、条約成立へ向けた各国の動きを、核の傘からの脱却をはかる機会ととらえ、その道筋を真剣に考えるべきだ」と、日米安保条約がある限り条約の批准が難しいとの認識を示し、条約批准の要件を自ら厳しくする(9日付社説)。またピースデポの田巻一彦は「米国との安全保障上の関係が深いフィリピン、マーシャル諸島、パラオは賛成票を投じた」、「日本は『核の傘』から出て、締約を」と述べる(『核兵器・核実験モニター』525号)。

 こうした主張には事実に反する面があり、次に、出来る限り支持が広がることを目指すべき運動論としても問題があり、さらに現実的に危険である。

 毎日は「日本などには米国からの同調圧力が働いたのだろう」と推測する。日本政府は核禁止条約を推進したいが、米国の圧力を受けてやむを得ず反対していると認識しているのである。

 しかしこれは実態に反する。田巻が挙げた太平洋諸国を例にとって見てみよう。かつてこれらの国は米国の信託統治領だったが、90年代、米国との間で自由連合を結んでミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオとして独立して国連に加盟した。しかし軍事や外交については米国の監督下に置かれたため、国連でも他の開発途上国とは異なる姿勢をとることが多く、ミクロネシアとマーシャルが国連に加盟した翌92年の総会では、核兵器使用禁止条約問題に関してミクロネシアが賛成する一方、マーシャルは日本と共に棄権、94年にはミクロネシアも棄権した。しかし95年には、賛成国が126、115、108と減少している中で両国とも賛成に転じた。

 この背景には、冷戦後の核をめぐる状況の変化があった。94年に国際司法裁判所に核兵器の違法性を問う決議が採択され、逆に95年には核保有の法的根拠でもある核不拡散条約の無期限無条件延長が決められる。96年には包括的核実験禁止条約が採択されるが、これに先だって中仏が核実験を重ねるなど、核兵器禁止が具体化する一方で核保有国の地位の維持しようとする動きも激しさを増していたのである。

 このような中で太平洋諸国は核禁止に踏み込んだ。ただし、パレスチナ問題などでは米国やイスラエルと歩調を合わせて反対することが多い。自らが大きな関係を持たないが米国が重視するパレスチナ問題では米国の意向を重視するが、核問題では独自性を示したのである。これらの諸国の核兵器禁止重視姿勢がよく表れている。なおフィリピンは一貫して賛成している。

 同時期、日本は核不拡散条約の延長に尽力する一方で、核兵器の違法性問題では反対を、核兵器禁止問題では棄権を続けた。日本は、核の傘に入っているからではなく、政府の基本的な姿勢として反・反核なのである。対米貿易問題などとは異なり、日本政府にとって核問題はいかような態度をもとり得る程度の問題に過ぎないのである。

 しかも北朝鮮が06年に核実験に成功し、今やその核兵器についての報道を聞かない日が無いような状態であり、米国は日本を守ってくれるのかを問う声も大きい。そのような中で核の傘に言及することは、日本が核兵器禁止条約支持のために越えなければならない壁を高くすることにも繋がる。

 さらに言えば、米国の統制を外れることは日本が暴走する可能性を高めることにもなる。日本は60年代には核保有も検討しており、今でも有力政治家が同様の発言を行うのだから。

 日本政府は核使用禁止問題に関する賢人会議を提唱した。これには疑問が寄せられていないようだが、実は問題が多い。国連の枠組みの中で開催された核兵器禁止条約会議ではすべての加盟国が参加資格を持ち、NGOの役割も認められた。しかし、国連の枠外で各国が独自に開催する会議であれば、主催国に有利な会議進行が可能になり、日本政府が積極的に核禁止に取り組んでいるような宣伝効果を挙げることも出来る。問い、監視しなければならないのはこのような姿勢である。