【進歩と改革2016年9月号】掲載


国際裁判と日中



 7月12日、常設仲裁裁判所が、南シナ海をめぐるフィリピンと中国の争いについて判決を出し、フィリピンの主張を全面的に認めた。これについて岸田文雄外相は「紛争当事国を法的に拘束する」と発言し、各紙の翌日の社説も、「中国は法秩序を守れ」(朝日)、「中国は判決に従う義務がある」(読売)と、足並みをそろえた。

 中国が批判されるのは当然だが、日本が左右を問わず声高に叫ぶことには違和感がぬぐえない。確かに日本は、1958年に国際司法裁判所(ICJ)の管轄権を認めたことを誇ってきた。また、北方4島や竹島についてICJの審理をソ連や韓国に求めたが、特に冷戦期は、ソ連がICJの管轄権を認める宣言をしていないことが言い添えられてきた。しかし、常に国際裁判を尊重してきたわけではない。

 81年に発足したレーガン政権は、79年に成立したニカラグア左派政権を敵視した。ニカラグアへの援助を打ち切り、反政府ゲリラを支援し、ニカラグアの石油施設を攻撃し、機雷を敷設するなど反政府活動を強めた。84年、ニカラグアは安保理に訴えるが、4月4日に米国が拒否権を行使したのを受けて、9日、ICJに提訴した。

 米国は、これは政治問題で司法機関にはなじまない、ニカラグアが周辺諸国に脅威を与えていることに対する集団的自衛権などと反論するが、ICJは5月10日に暫定措置として機雷敷設などの即時解除を命じた。米国はこれを認めず、ニカラグアへの経済制裁を強化し、85年5月10日には改めて安保理で拒否権を投じた。ニカラグアはこれを総会に持ち込み、12月17日、経済制裁非難決議に至った。中南米諸国ではメキシコとペルーが提案国に加わる一方、反対は米国など六カ国に留まった。安保理、ICJ、総会と国際的な手段を尽くす小国ニカラグアに対する、大国の嫌がらせだった。

 85年10月7日、米国は、自国が訴えられた場合にはICJの管轄権を受け入れる、46年に行った宣言の撤回を、国連事務総長に通達した。これは6か月後に効力を発するが、その2か月余り後の86年6月27日、ICJは米国の介入を違法とし、ニカラグアに対する賠償を認める判決を出した。

 日本はICJから距離をとり、外相は、機雷撤去を命じた際には、「アメリカ政府が直接介入しているとも私は思っておりません」と言い続けた(衆院外務委員会、84年8月1日)。安倍晋三の父、晋太郎だった。高村正彦外相・現自民党副総裁も「判決の具体的内容については、それぞれの論点につき個別の事件の文脈に照らして理解すべきもの」と答弁した(参院日米防衛協力特別委、99年5月20日)。

 政府が推薦する判事も露骨な姿勢を示した。全16節からなる86年の判決に対して、米国判事が12の節に、小田滋判事が11の節に、英国判事が9つの節に反対した。仏伊を含めた12名の判事が全節に賛成していた。

 領土問題においても、日本が国際裁判に言及するのは北方4島と竹島に限られ、尖閣諸島については、国会で質問されても答えない。96年、当時新進党に所属していた山田正彦が竹島と尖閣を並べて国際司法裁判所への提訴を求めたが、高田稔久経済局海洋課長は韓国が拒否していることに触れる一方で、尖閣については無視した(2月22日、衆院農林水産委員会)。7月に海洋法条約が発効し、9月には香港や台湾において尖閣をめぐる運動が活発化する直前だった。

 山田は菅政権で農水相に就き3か月で退任するが、退任間際に起きたのが、いわゆる中国漁船が海上保安庁の巡視艇に衝突した事件だった。ここで民主党政権は領土問題は存在しないとして裁判に訴えることを否定し、自民党政権の姿勢を踏襲して、外務省の主張に倣った。「尖閣諸島をICJに付託するか否かについては、尖閣諸島を有効に支配している我が国が言い出す話ではなくして、我が国の有効な支配に挑戦する立場の中国がどう考えるかという問題」なのである(岸田外相、2,013年3月15日、衆院外務委員会)。

 これに倣えば、竹島や北方4島に関して、現に実効支配している韓国やロシアが自ら裁判に訴えるべきではなく、また両国は、日本から訴えられても応じる必要はないことになる。韓ロと日本の主張はよく似ている。

 中国は柳井俊二海洋法裁判所長が5人の判事のうち4人を指名したことを批判するが、これも単なる言いがかりとは言い難い。柳井は条約局長としてPKO協力法に、審議官として安保条約指針の改定に、事務次官として周辺事態法に、駐米大使としてテロ特措法に関わり、安保法制懇座長などを努めた、まさに冷戦後の日本外交を動かしてきた人物である。それが海洋法裁判所に送り込まれても、日本国内では問われない。この方が問題である。

 もちろん中国は良くない。米国新保守派や日本とよく似た、小国を脅す自分勝手な姿が良いはずはない。