【進歩と改革2016年7月号】掲載


オバマの広島訪問



 5月10日、日米両政府がオバマ大統領の広島訪問を発表したが、その日の安倍首相の会見や翌日の菅官房長官の会見では、首相が大統領に謝罪を求めるか否かが質問された。

 これに関して「日本の政治指導者も、過去の戦争責任をどう受け止めるべきか、改めて考える機会としなければならない」(朝日、5月11日付社説)などの声もある。しかし、日本では、米国は、戦後のソ連との対抗のために日本に戦闘能力がなかったにもかかわらず原爆を投下した、軍部や財界の利害が働いたなどと指摘する声が強い。日本軍国主義が核兵器に特別な意味を与えたことはあまり認識されていない。

 ここで特に日本人が考えなければならないのは、単なる時間稼ぎに過ぎなかった沖縄戦の異常さである。沖縄戦では、日本軍が兵士の生命を無視した特攻などの戦法を用いて、米軍に多くの犠牲をもたらした。米国は確かに特攻を恐れたが、それは被害以上に、人命を無視する日本軍国主義の異常さにあった。また日本軍が民間人の生命も無視したことなどから米兵は惨劇を目にすることになり、多くの米兵が精神を病む。米国は本土決戦において予想される被害の深刻さを学んだ。

 日本に戦争遂行能力はない。しかし日本が降伏しないことも、また日本人が自ら軍国主義を倒す可能性が低いことも、ここで停戦したのでは軍国主義が温存されることも明らかである。そこに沖縄戦の惨状が加わる。だからこそ、原爆により日本人の犠牲も少なくなったとも主張されることになる。

 その日本軍国主義が2発の原爆投下で降伏したことにより、原爆は二重の意味で特殊な性格を帯びることになる。一つは、まともな話し合いもできず、自国民の生命すら無視する非合理的なイデオロギーも原爆の威力を理解したこと、いま一つは、すでに主要都市が焼け野原であっても揺るがなかったこの体制も、原爆の前には屈したことである。これは、米国だけではなく、中国や東南アジアなどの原爆投下への認識を考える上でも重要である。

 ただし、日本軍国主義の侵略によって戦争に巻き込まれた米国は、自らが正義だと考えるからこそ、その行為に問題がなかったのかを問い直さざるを得ない。戦後すぐに原爆の惨状を米国社会に告発し衝撃を与えたのも米国人ジャーナリストだった。その後も原爆への問い直しがなされ、オバマの脱核兵器の動きもその文脈の上にある。

 ところが、当の日本政府は核軍縮に関してほぼ一貫して否定的消極的な立場を貫いた。これについて、「米国の『核の傘』に依存する日本(の)…姿勢は『核保有国の代弁者』と見なされがち」(毎日、5月18日付社説)などと説明されるが、不適切である。核の傘は冷戦期の米ソ間の核兵器に関する説明だが、日本の姿勢は冷戦後に露骨になった面もあるのだから。

 例えば昨年10月号でも紹介したように、96年に国際司法裁判所が核兵器の違法性について勧告的意見を出した際にも、日本政府は広島と長崎両市長に核兵器を違法と言わないように求め、日本人判事だった小田滋は、「全面的な核兵器禁止の法的基盤は否定されたと考えられる」と核兵器を合法とし、違法性を問うたことをも批判した。

 日本政府のこうした姿勢は軍縮交渉でも繰り返された。日本がいなければ核兵器禁止努力が多少は進展した可能性もあったかもしれない。

 一方、日本は国内外に向けて自国の姿勢への弁解を続け、それを唯一の被爆国などの枕詞で飾ってきた。広島の願いは、隠れ蓑として利用されてきた。

 その外務担当者が、原爆投下に関して米国の日本差別を指摘することがある。例えば「白人たるドイツ人やイタリア人ではなく、黄色人種の日本人の頭の上だから平気でとはいわないが、より少ない良心の呵責で広島と長崎にピカドンを落としたのだ、と疑われても仕方があるまい」(平原毅・元駐英大使『英国大使の博物誌』1988)のように。日本軍国主義の侵略を正当化する者も少なくない。「大正時代の日本人移民排斥、戦争開始前の対日経済封鎖政策、戦争開始後の日系米国人の強制収容、日本の都市への無差別焼夷爆撃、そして二発の原子爆弾の使用を総合すれば、米国人の日本人に対する強烈な人種差別意識を感じ反発を覚えた」(村田良平・元駐米大使『村田良平回顧録』2008)は典型である。

 平原は、72年に沖縄返還に関わる密約が暴かれた際の経済局長で、村田は冷戦末の87年から89年に事務次官を務め、後にこの密約の存在を認めた。ただし村田は、この回顧録を「皇室の末永き弥栄を祈念申し上げて、本書をしめくくることと致したい」との一文で閉じる露骨な右翼だった。

 このように見ると、謝罪をしないのかと記者が尋ねるべきは、安倍、これら外務官僚や一部の学者ではないのか。その上で次のように迫るべきだろう。日本の首相はなぜパールハーバーや南京を訪問しないのか、と。